「マテリアライジングじゃないほう」

思い出横丁情報科学芸術アカデミー 谷口暁彦研究室

昨年に引き続きこの「マテリアライジング展」に参加しているが、この展覧会の名称である「マテリアライジング」という言葉に対しては大きな違和感を感じている。レーザーカッターや3Dプリンタといった、デジタルファブリケーション技術の普及を背景にして、「マテリアライジング展 / 情報と物質とそのあいだ」というタイトルの展覧会が開催された場合、多くの人はそれぞれの言葉をこのように理解するだろう。

「マテリアライジング」 = 3Dプリンタ等でデータを出力すること
「情報」 = コンピューターの中のデータ
「物質」 = 3Dプリンタ等で出力されたもの


一見自然な理解であるように見える。が、全くの間違いだ。このような理解では、まるで情報が純粋な"概念"であって、物質性のない存在であるかのようだ。しかし実際、コンピューター上のデータは、ハードディスクにある時は回転する金属板の磁気の痕跡として存在しているし、それが読み出され転送される時は電子の移動とその信号のon/offという物理的な支持(物理的な存在があることと無い事の差異)によって表現される。モニターに映し出される像もまた液晶パネルやピクセルといった物理的支持によって実現されているはずだ。

3Dプリンタ等で出力されたものは、人間がモニターを通じて想像したイメージを、あくまでも人間の身体のスケールや感覚器官で知覚可能な範囲内で表象したものでしかない。つまり、それは単に「人間向け」なだけであって、マテリアライジング(物質化)ではなく、人間向けの「翻訳」だ。その翻訳を「マテリアライジング(物質化)」と言って有り難がるのは、自分が人間であるという主体の確かさを疑わず、いたずらにその主体を強化するだけの極めてエゴイスティックな営みだ。

昨年も同じ「情報と物質とそのあいだ」というテーマでエッセイを書いた。ほぼ今回と同じ批判を書いているので読んでほしい。

http://materializing.org/wp-content/uploads/2013/06/12-11s.jpg

このエッセイの中で私はおおむね以下の様な事を書いた。


-物質は、それを読みとる人間がそこにいれば、常に様々な意味/情報を持っている。
-反対に、情報はそれが読み取られるために、常に物質的な支持体を持っている。
-けれど、必ずしも物質=情報ではない。
-例えば「当選の発表は商品の発送を持ってかえさせていただきます」という懸賞の仕組み
-「落選した」という情報は「商品が期限までに届かなかった」事で得られる。
-そこには物質の移動、物質による情報の支持がない。物質の不在で得られる情報
-情報は物質が「ある」ことと「ない」ことの「差」の中にある。記号論的な差異。
-ある物から情報を読み取れる時、それを可能にする差異として物質の不在、空虚な空間や時間が必ず存在している。


情報と物質という概念は対置しえないし、情報と物質の「あいだ」はそこに無い。そこに「あいだ」を産み出してしまうのは自らの身体と、その知覚の限界を想像しない怠惰とエゴイズムだ。情報は物質の存在と不在の差異の中に存在する。ならば、むしろ物質として存在する側でなく、知覚不能だが、確かにそれを情報たらしめている物質の不在の側へと眼差しを向ける事、それがこの「情報と物質」というテーマににおいて探求すべき、本質的な問題なのではないだろうか。