ICCで展示されている越田乃梨子の、《机上の岸にて》を見てきた。
映像は、同じ机上での2名(神村恵,高嶋晋一)のダンスを別々に撮影し、
それをまったく編集せず、それぞれの机の面が繋がるように左右に配置されている。
この作品の冒頭、二人のダンサーが黄色いボールを左右それぞれのフレーム内で転がしている。
この時点では、この映像がどのような状況で撮影されたのかは以下のいくつかの可能性のなかで確定しない。
a.)1つの机の上に、2人のダンサー。それを2台のカメラで一度に撮影する。
b.)1つの机の上に、1人のダンサー。1人づつのダンスを1台のカメラで2度撮影する。
c.) 1つの机の上に、2人のダンサー。それを1台のカメラで2度撮影する。
d.) 2つの机の上に、それぞれ1人のダンサー。それを2台のカメラで一度に撮影する。
e.) etc...
このいずれの可能性であっても、机の平面が左右の画面を滑らかに繋げている限りにおいて、左右の映像の境界線は、決して安易に超えてはならない緊張感を持ってくる。
冒頭の黄色いボールが、画面の向こう側に転がっていってしまうかのように不安定に転がる(しかし絶対に境界線を越えない)事で、さらにこの境界線の存在を強く印象づけている。
作品の中で、境界線を越えるシーンは2つ。ひとつは女性のダンサーの足がまたぐシーン。もうひとつは男性のダンサーが被っていた帽子を寝転んでいる女性の頭へ落とすシーン。しかしどちらも、境界線上を直接またぐ事を慎重にさけ、実際にはフレームの外(上部、または下部)へ出て、反対側の映像のフレームに再度入り直している。
こうした慎重な操作(またはパントマイム的な滑稽さ)によって、左右の映像が、同一の時間軸になく、別々の時間に撮影されていて、それを机の平面で同一にするという、見かけ上のある程度の整合性のようなもので強引に張り付けてるのだということが見えてくる。
別々の時間に撮影した映像を、左右でひとつに繋げ、机を伸ばして見せることで時間、空間を歪ませる。というようなことはこの作品の意図ではない。というかそんなことは起きてはいない。むしろ慎重に越境を避けるそのさまは、左右の映像の時間、空間が単独に存在しているということを何度も強調してくる。
映像の中盤をすぎたあたり、右のフレームから左のフレームにまたいで移動した女性のダンサーの足首を、もう一人の男性のダンサーの手が押さえつける。これまでフレームの直接的な横断を避け、また1つのフレームの中に1人のダンサーしか映していなかったのに、ここで唐突に1つのフレームに2人、つまり撮影のプロセスの中に2人のダンサーが存在していることが知らされる。
つまりここまでで、この映像が上記の撮影プロセスの可能性のうち、c.)であるということは概ね理解できてくる。
そして、一見タネ明かし的に見える終盤のシーン。左右の映像がともに、今まで机に対して平行だったカメラを斜めに移動し、机全体とその机に乗っているダンサー2人を映し出すが、このシーンは何のタネ明かしや解決にもならない。
今までそれぞれの映像の中に映っていなかったもう一人のダンサーが、背後で別様の、ここまでの映像には映っていないダンス(つまり左右の映像で対にもなっていない)をしている姿は事態をより混乱させる。単にこの作品での映像的トリックのタネ明かしがしたいのであれば、背後のダンサーはまったく不要なのだ。つまりあの足首を掴むシーンもいらなければ、撮影のプロセスは c.)ではなくてb.)のプロセスでよかったはずなのだ。
ひとつの映像の技法として、異なる位置関係、異なる時間で撮影した映像を、ひとつに重ねること。例えば映画で一人二役で演じ、あとで合成するようなシーン。この作品ではそういった合成につきまとうタネ明かし的な帰結を巧妙に避ける。そして、2つの映像を併置/合成することが、むしろそれぞれの映像の無関係さと単独性を強調し、その映像に映らなかった外部へとまなざしをむけさせる。