【考えてみる】バーチャル避難訓練とは

バーチャルな空間での活動を避難として捉える


2020年、新型コロナウイルスの流行によって、私たちの生活は大きく変化しました。感染拡大を防ぐため、現実の空間で大勢の人が集まったり移動することが難しくなってしまったのです。そうした状況でインターネットや、ビデオゲームの中で、展覧会やライブイベントを行う試みが様々に行われています。ウイルスは、人々の現実の繋がりのネットワークを通じて伝播するものですが、インターネットや、ビデオゲームでの試みは、そうしたウイルスのいないバーチャルな場所への避難行動のようにも見えます。このワークショップでは、3Dスキャンやゲームエンジンなど、バーチャルな空間を作るための技術を用いて、参加する人それぞれにとってのバーチャル空間上の避難所を製作します。それは現在の状況に対する避難訓練でもあり、また現在の状況を理解するための手がかりにもなるはずです。

バーチャルな空間とは何か

アントナン・アルトー

わたしたちは、インターネットやゲームの中で表現される「空間」をしばしば「バーチャル空間」と呼びますが、この空間はいったいどのような空間でしょうか。この空間は本当の意味での空間ではないかもしれません。私たちが通常存在しているこの物理空間は、誰が作るでもなく所与のものとして存在していますが、バーチャル な空間は作らなければ存在しない、メタファーやフィクションのようなものです。しばしばサイバースペースや、人工環境とも言われるものでもあります。

バーチャルな空間を体験する仕組みや、その体験の確からしさを意味する「バーチャル ・リアリティ(仮想現実)」という言葉があります。これはフランスの劇作家、詩人のアントナン・アルトーが1938年、「演劇とその分身(double)」という著作の中の「錬金術的演劇」というテキストの中で初めてもちいた造語でした。ここでは、分身のように現実と重なり、隠されているリアリティを錬金術のように抽出する、演劇のあり方について語られていました。

感染症とバーチャルリアリティ

瘴気論に基づき独特なマスクを装着して治療にあたるペスト医師

また、アルトーは「残酷演劇」という演劇の理念を提唱し、ペストと演劇とを重ね合わせるような視点をもっていました。つまり、ペストという感染症の流行によって社会が混乱し、人々の残酷な本性が剥き出しになる状態に演劇の可能性をみていたのです。現在の私たちが遭遇している、新型コロナウイルスの流行とその混乱という状況は、アルトーが前提としていた中世のペストの大流行とは必ずしも同じではありません。しかし感染症の流行によって生活や暮らしが変化し、バーチャルな空間でのコミュニケーションが増えた現在の状況は、アルトーが見ていた演劇のあり方と重なるところがあるように思えます。

移動することは複製すること

今回のバーチャル避難訓練のワークショップは、物理空間で行われる避難訓練とはいくつか異なる性質があります。それはバーチャルな場所特有の特性に基づくものです。もっとも大きな違いは、移動と複製することの違いがないということかもしれません。例えば、デジタルカメラ以前の、フィルムカメラで撮影した写真(のプリント)を送ると、手元の写真は無くなってしまいます。しかし、スマートフォンで撮影した写真をメールで友人に送ったとしても、手元の写真はなくなりません。デジタルデータを送ることは、それを複製することと同じ出来事だからです。これはとても当たり前の前提ですが、これは大きな違いや意味を生み出します。

マトリックスとコピーロボット

パーマン第1話「パーマン誕生」より

1999年に公開されたSF映画「マトリックス」は、バーチャルな世界と現実とを行き来しながら展開する物語です。主人公は、ある日突然受け取ったメールをきっかけに、今生きている世界が反乱したコンピューターによって作られた仮想現実であることを知らされます。(本当の身体はコンピューターのエネルギー源として培養、飼育されている)そこで現実に目覚めることを選択し、世界の救世主として活躍します。この映画の中で、登場人物たちはコンピューターによって作られたバーチャルな世界に進入する際、首筋に設けられたインターフェイスにジャックを差し込んで「転送」されます。このとき、現実の身体はまるで眠っているように動かなくなってしまします。つまり、バーチャルな世界へ魂が転送されてしまって、現実の身体は抜け殻になってしまっているのです。しかし、もし魂がデジタルデータのように転送可能であるならば、転送することと現実の身体は抜け殻のようにならず、バーチャルな空間の身体と、現実の空間の身体は同時に共存可能なはずです。しかし、マトリックスでは、そのように魂を複製することは描かれていません。それを描いた途端に、世界を救う救世主としての主人公の存在が無数に分裂し、混乱した物語になることは想像できると思います。

しかし、藤子・F・不二雄による1967年の漫画「パーマン」では、魂を複製することをいとも簡単に行ってしまう道具が登場します。さえない小学生「須羽ミツ夫」がある日バードマンという宇宙人に出会い、宇宙の平和を守る「パーマン」となって活躍するという物語です。作中、ミツ夫がパーマンに変身して活躍しているときに、日常生活に支障がでないよう自分自身の身代わりとして、たびたび「コピーロボット」というロボットを用います。このコピーロボットは、鼻のボタンを押すと、ボタンを押した人物そっくりの姿になり、思考や性格、能力なども完璧にコピーします。つまり、このコピーロボットは自らの意思で動いて、ミツ夫の身代わりをする自立した存在なのです。文字通り存在そのものがコピーされ、2人に増えた状態になるわけです。最終回で、ミツ夫は日本の最優秀パーマンとして選ばれ、バード星へ留学することになるのですが、コピーロボットをそのまま身代わりとして置いていきます。つまり、オリジナルのミツ夫はバード星へ行ってしまうのですが、家族や友人は目の前にいるミツ夫がコピーロボットであることを知らずに、そのまま日常が続いていくのです。「パーマン」が子ども向けのユーモラスな作品であることで、この複製された存在の問題について深く考察されることは避けられていますが、とても奇妙な存在の状態を描いています。

複製される「この私」

「方舟を出た後のノアによる感謝の祈り」ドメニコ・モレッリ

コピーロボットの例のように複製することを、保存や予備を目的に行うと「バックアップ」と呼ぶことがあります。とくに、コンピューターのデータを複製しておくことを「バックアップ」と呼ぶことが多いと思います。しかし、このような「バックアップ」のような考え方は、必ずしもコンピューターが登場してから生まれた考え方ではありません。例えば旧約聖書に登場するノアの方舟の物語もまた、災害に対するバックアップとしての方法を取った事例と言えます。ノアの方舟は、神が大洪水によって全ての生物の滅ぼそうとするなか、ノアという人物が限られた家族やいくつかの動物のつがいを方舟の中に保護し、大洪水の後に再び世界を構築するという物語です。つまり再び世界を構築するための最小限の材料をバックアップとして保護するという方法でした。この、ノアの方舟に見られる世界の崩壊と、そのバックアップという構造は小説や映画、アニメーションなどのフィクションの題材にたびたび登場する構造でもあります。先述したマトリックスも、崩壊した世界という現実と、方舟のような仮想現実という構造を見ることができます。


ゼーガペイン公式サイトより(http://www.zegapain.net/tv/

2006年に放映されたSFロボットアニメ「ゼーガペイン」は、このような崩壊した世界と、仮想現実といった構造を持ちながら、マトリックスでは描かれなかった、データとして複製された存在の問題を扱った作品でした。主人公のソゴル・キョウは、舞浜南高校に通う高校生で、そこでは高校生活の日常が描かれています。キョウは、廃虚となった世界でロボットを操縦して戦うゲームにのめり込むのですが、のちに実はその崩壊した世界こそ現実の世界で、舞浜市での日常の世界は量子コンピュータのサーバー上でシミュレーションされた世界だったという構造に気づきます。さらに、量子コンピュータの容量や計算能力の限界のため、このサーバー内では舞浜市しか保存されおてらず、市外が存在しません。また4月1日から8月31日までの5ヶ月間を延々とループしつずけているのです。そして、主人公を含め、サーバー内に存在する登場人物たちはみな、データとしてシミュレーションされた存在で、現実の世界では全ての人類が絶滅してしまっているという状況が明らかになってきます。つまり、ここに登場する人物たちはみな、オリジナルが失われてしまったバックアップとしての存在なのです。

このワークショップで考えたいこと

今回のワークショップは、このように自らの存在をデジタルデータとして複製することを「避難」として捉えるという試みです。通常、避難とは災害などの危険から身を守るため、いま自分がいる場所から別の場所へ移動することです。つまり、掛け替えのない「この私」の存在を物理的に移動させることを意味します。しかし、バーチャル避難訓練は、「この私」をデジタルデータとして複製することを「避難」として捉える試みです。この試みを通じて、さまざまな問いを浮かび上がらせたいと思っています。私たちはいまなぜバーチャル空間に避難しようとしているのでしょうか?あるいは、外出を自粛し、家にいる状態がすでに「避難」であり、バーチャル空間での試みはむしろ「外出」という行為を「避難」させているのかもしれません。アバターとして複製された「私」は、オリジナルの「この私」とどのくらい同じで、どのくらい異なっているでしょうか?その類似は、たとえば親子や兄弟が似ていることと関係しているでしょうか。掛け替えのない「この私」は、すでに誰かの複製という側面を持っているかもしれません。また、複製された「私」は、オリジナルとしての私が亡くなったあとも残り続けます。そのときに、この複製された「私」が持つ意味はどのように変わるのでしょうか。