日々の記録

2012-2013

日々の些細な風景を、日記のように3Dスキャンによって記録していった作品。2012年11月ごろから始め、tumblrというマイクロブログサービスを利用してweb上に公開していた。道端に落ちていたゴミや、食事の様子、洗濯物の山といった、記録されることのないような雑多な風景を記録した。その後、2013年「マテリアライジング展I 情報と物質とそのあいだ」にてインタラクティブなかたちで展示。

「実家3D」を制作してから、コンピューターで描かれる3次元の空間に、雑多な日常の風景が入り込むことに魅力を感じていた。OpenGLというライブラリを用いて3Dの空間を作るとき、まるで宇宙のように何もない、真っ暗な空間から作り始めることになる。そうした均質な空間の中に突如として生活感が紛れこむ、その唐突さや違和感に惹かれていたし、そうした混沌とした様子に確からしさを感じていた。

そういった興味を持ちながら制作しているうちに、フォトグラメトリという3Dスキャンの手法があることを知った。それまで3Dスキャンといえば、業務用のセンサーを用いた高価で大掛かりなものが中心だったが、フォトグラメトリによる3Dスキャンは特別な装置が不要で、複数の角度から撮影した写真さえあれば簡単に3Dデータを生成できた。2012年ごろは、そうした手軽さから3Dスキャンが徐々に普及しはじめ、遺跡や美術品などの新たなアーカイブ手法として博物館や美術館で用いられるようになった時期だったと思う。

フォトグラメトリのソフトを購入し、日常の風景を3Dスキャンで撮影することを始めた。記憶に残らないような日々の平凡な風景を、3Dで記録することの大袈裟さに面白さを感じていたし、一方でそうした些細な風景のかけがえのなさを感じていたと思う。2011年に震災や原発事故があり、当たり前だと思っていた生活の基盤が揺らいだことも関係したかもしれない。なによりもそのような状況でも生きている限り、生活それ自体は淡々と続いてしまうことの、そのだらしなさにも驚いていたように思う。また、近い将来に3Dスキャンがスマホのカメラのように手軽なものとなったときに、特別なものだけでなく、平凡な日常が大量に3Dスキャンで保存されるようになるだろうと考えていて、そうした状況を想像しながら撮影していた。それからちょうど10年経った2022年現在、iPhoneにはLiDARセンサーが搭載され、手軽に3Dスキャンができるようになった。平凡な日常が、そして戦争の被害も、膨大に3Dスキャンされ、インターネット上にアップされるようになっている。

フォトグラメトリは、対象をさまざまな角度で撮影し、その特徴からソフトウェアが立体形状を推定して3Dデータを合成する。当時のフォトグラメトリのソフトは現在と比べるとまだ精度がそれほど高くなく、ところどころドロっと溶けったような形になってしまうこともあった。しかし、そうした限界やグリッチにこそ、人間とは異なるソフトウェアの知覚や無意識のようなものを感じられた。さらに言えば、撮影された複数の写真と写真の間や隙間を、ソフトウェアが補完することによって不完全な形態が合成され、それを見る自分自身の記憶自体も、どこかソフトウェアによって補完されているかもしれないとも思えた。 そうした非人間的な知覚が入り混じった形態であることや、多数の視点によって一度撮影、見られたもの(複数性・過去)を三次元の空間の中で、手にとるようにリアルタイムに操作して単一の視点から見ることができる(単一性・現在)という時制や視点のズレの問題も気になっていた。こうした問題がのちの「私のようなもの/見ることについて」という作品へとも繋がっていく。

最終的に2013年に東京藝大の陳列館で開催された「マテリアライジング展」にて、当時住んでいたアパートの室内で撮影したデータだけを集め、インタラクティブな形式の作品として展示した。その際、3Dモデルを回転させたりしながら閲覧できるインターフェースを制作した。アーケードゲーム用のジョグコントローラーのボールに自分自身の顔を描き、天面のパネルにはアパートの間取りを描いた。そうすることで自分自身の頭部を操作しながら部屋の中を見回すようなインターフェースとした。後から思えば、アバターのように明確ではないものの、これもまた作品の中に自分自身の姿が登場する作品だった。また、その後2015年に「frameless」というドイツの音楽イベントでも展示された。

日々の記録 / recording of everyday life installation ver.(2013)
2013年に行われたマテリアライジング展での展示

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