超・いま・ここ

この展覧会は、ひとつの共通したテーマが見えてくるように、過去に制作した作品からいくつかを選んで構成したものだ。作品を作るときはいつも、前の作品とは大きく違う、一貫性のないものを作ろうと考えているのだけれども、それでも振り切れず、しぶとくこびりついて残ってしまうものがある。それを展覧会で浮かび上がらせられたら、ということを考えていた。そして、今回の展覧会では、2007年の「jump from」という作品を起点に、主に時間と、それに付随する空間の問題を、コンピューターの表示器である「ディスプレイ」というマテリアルを通じて考察することにした。

予言

まず、「予言」から始まる。「jump from」は、「予言」を実装することを意図した作品だった。そこでは、あらかじめ記録されたもの、つまり「過去」である複数の予言の集積の束が背後に保存され、それが入力に応じて適宜必要なものが「現在」に表出される構造になっている。そしてその構造をささえる存在として、コンピューターの計算処理の過程がある。予言とは、予言の対象となる未来から見れば、現在に過去の一部が表出してきたものとして、予言が行われた過去から見れば、現在に未来の一部が表出してきたものとして捉えることができる。つまり、予言はそれが行われた時間から、その予言の対象となった未来までの時間を、無時間的に接続してしまう構造を持つ。そして、「jump from」でその接続の構造を支えているのがコンピューターの計算処理になる。もう一つ、予言の本質的な前提として、予言の内容と、予言された未来の出来事が"似ている"ことがあげられる。予言の内容と、予言された未来の出来事が似ていないということは、予言が外れたということだからだ。

「inter image」ではそうした"似ている"ことの問題から、異なる場所、時間にあった様々なものたちが、たんに"似ている"ということだけで連なっていく構造を作った。この作品を、なおも「予言」として捉えるなら、バラバラに記録、保存された複数のものたちが、部分的に他の何かに似ていることによって、お互いの存在や現象を予言しあっている状態として見ることができる。そして、互いに予言しあうということは、それらの間に本来あった時間的な隔たりを、無時間的に短絡しあうことでもあり、そこでは全体にわたって、時間の前後/隣接関係が喪失している。「jump from」「inter image」は、どちらもあらかじめ起きた出来事を収集して保存し、それをある入力に応じて必要なものを呼び出すという動作を行っているが、これはほとんどデータベースと、データベースに対する検索の関係と近い。データベースとして保存されたものたちは、互いを潜在的に予言したまま離散的な状態で保存され、検索キーの入力に対し、検索アルゴリズムによる計算が行われ、その類似の度合いに応じて保存されたものが呼び起こされ、予言をいま、実行する。

初期のこの2作品においては、まだディスプレイがそれほど意識的に用いられていたわけではない。しかし、これらの作品のディスプレイ上で起きている出来事が、のちの作品に影響を及ぼしている。遡ってみれば、この時点の僕は、過去に起きた出来事が蓄えられ、それが計算によって現在に表出し、現在を演じる場として、ディスプレイを捉えはじめていたように思う。

ディスプレイの物理的な存在

「jump from」と「inter image」以後、この「予言」の問題は、より物理的な空間の「現在」に積極的に関与する方向にシフトしていく。その中で「予言」の前提条件となる"似ている"という問題が、形態や軌跡が「類似」していることから、現象が起きるタイミングや速度の「同期」の問題へと変わっていく。例えば「置き方」では、映像内の出来事から発せられた音をトリガーにして、ディスプレイの外側のモーターが音と同じタイミングで作動してディスプレイが首を振る。この「同期」によって、映像に映る過去の出来事が、現実の空間の現在に漏れ出してくるようになる。またそれは、映像に映る過去の出来事が、現在のこの場所になんらかの作用を与えるようになることで、つまりは「機能」を持つということでもある。こうした「機能」を強く意識して制作したのが、「夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる」と「夜だけど日食」という作品だ。「夜の12時を〜(略)」は時計の針が一周する12時間を撮影した映像を再生し、常に現在時刻と一致するようにプログラムで制御している。ここでは、過去の映像が現在の時間と常に「同期」しつづけることで時計としての「機能」を獲得する状況が起きている。

同期

「置き方」という作品では「同期」によって、映像の中の出来事を現実の物理世界へ作用させることを意図していた。その際に、映像がディスプレイを通じて空間に配置されることで、ディスプレイそのものの物理的な存在やその特性をどう扱うかという問題が現れてきていた。「置き方」の展示を通じてこの問題が徐々に大きなくなり、「思い過ごすものたち」で主題のひとつとして扱われるようになる。特に、「思い過ごすものたち」の5つの作品のうち、「A.」がもっとも特徴的で極端な例だ。風に吹かれたiPadがゆらゆらと揺れる、そのディスプレイの振る舞いが、ディスプレイの内と外とをつなぎ合わせる紐帯として機能している。つまり、ディスプレイの薄さや軽さといった物理的な特性が、この接続を支えていて、もはや「置き方」にあったようなディスプレイの中の映像と、外部の物理世界との直接的な関係は失われている。

シミュレーション

「夜の12時を〜(略)」以後の作品において、ディスプレイの中に映る映像は、過去に撮影されたものから、リアルタイムなシミュレーションや、アプリケーションの画面へと変化している。この変化は、初期の「予言」の問題が全面的に展開された結果と見ることもできる。「夜の12時を〜(略)」で起きている出来事を、「予言」として見るならば、その予言の対象となる「時計」という世界で起きる出来事の、すべてを記述した「予言」となってしまっている。予言は部分的に行われるからこそ、過去でありながら、現在と短絡的に繋がるという出来事として確認することができる。しかし、これが全面的に行われる事態(撮影された時計が普通に時計として使えてしまう事態)において、そうした時制の比較が無意味になり、予言が記述するものは別の領域を形成しているように思う。つまり、ここでは「予言」よりもむしろ「シミュレーション」に近い事態が生まれている。そうした、ディスプレイに映る映像が、記録された過去であることをやめた状態が「物的証拠」でも続いている。これは、原因と結果の因果関係を問題にした作品だが、原因の側をシミュレーションとして捉え、因果関係を偽装というか、怪しくすることを考えていた。計算やシミュレーションという再現可能で無時間的な出来事が、痕跡として「物的証拠」を残してしまうような状態。そのような作品なのだと思う。

折りたたまれたディスプレイ

2012年ごろから、3Dスキャンで撮影した3Dデータをいくつかの作品の中で使用するようになった。3Dスキャンは、対象を様々な角度から撮影し、その複数のデータからソフトウェアが形態を推測して立体のデータを生成する。過去に撮影されたものを保存・再生するという性質の共通性から言えば、写真や映像のようなイメージの記録メディアの一種といえる。しかし、そうした他の記録メディアと大きく異なっているのは、3Dスキャンによって生成された3Dデータをビューワーで閲覧するとき、まるで3Dデータを実際に手で持っているかのように、マウスでリアルタイムに操作して3Dデータを様々な角度から眺められることだ。過去に撮影されたイメージの離散的な集積でありながら、鑑賞者の操作に応じて逐次見える部分だけが計算され、現在と同期して表示される。つまり、ここには初期の「jump from」や「inter image」と同様の構造がある。こうした点が、僕が3Dスキャンに強く惹かれているところなのだと思う。「スキンケア」という展示では、3Dスキャンの特性を利用した「透明感」という作品を制作した。この作品は、3Dスキャンで生成される2つのデータ(メッシュデータとテクスチャーデータ)のうち、テクスチャーデータの画像だけをプリントアウトし、それをリアルタイムにカメラで撮影し、スクリーンに投影されたメッシュデータに貼り付けるという仕組みになっている。テクスチャーデータの画像は、複数の角度から撮影した写真を収集し、最終的に3Dのメッシュデータに貼り付けるためのアルゴリズムに基づいて要素が配置され、生成される。つまり、これまでの考え方に基づけば、このテクスチャーデータの画像は、過去に記録されたものが保存され、レンダリングされるのを待ちつづける「予言」のデータベースになっていると言える。「透明感」で、この画像をカメラで撮影すると、複雑な変換規則に基づいて、3次元的に変形され、メッシュデータ上に表出される。この作品を、なおもまだディスプレイの問題として考えるならば、この作品で前提とされているのは、平面状のディスプレイのことではないのかもしれない。この「透明感」におけるディスプレイは、3Dデータのポリゴンによって作られる凸凹とした表面のことではないだろうか。その凸凹に対してテクスチャーデータの画像が貼り付けられていくわけだが、テクスチャーデータの画像は、折り紙のように、離散的で複雑な変換規則に基づいて3次元的に変形し、貼り付けられていく。この時、時間と空間は、3Dデータ表面の起伏を基準にして、前後/隣接関係が離散化した状態で貼り付き、リアルタイムな入力に対し、逐次の計算が行われることで表示され、現在を演じる。そもそも、ディスプレイ(display)の語源は、畳まれたものを広げる(dis-plicare)という意味だ。ならば、3Dスキャンで生成された3Dデータの表面を、織り込まれたディスプレイと見做すのもあながち間違えた方向でもないだろう。

この10年間の作品を、時間と空間と「ディスプレイ」の問題として振り返ってみた。こうして見えてきたのは、なんらかの計算処理によって、リアルタイムに生成されるものは当然ながら、過去の出来事すらも「現在」として生起してしまう場としての「ディスプレイ」という存在だ。そして、その「ディスプレイ」を、外の物理世界と繋げてみたり、それ自体を物理的な板として使ってみたり、折り曲げたり、くしゃくしゃに変形していた10年だった、ということなのかもしれない。ここまで身も蓋もなく、過去を自分で説明しきってしまうことが良いことなのか分からない。もちろん、それぞれの作品をもっと別の文脈で読む可能性もあるだろう。ただ、次の新しい作品をつくるためにも、こうしてまとめておくことも重要だろうと思う。



2017年3月 谷口暁彦