超・いま・ここ トークイベント

「ディスプレイ」をめぐって

展覧会に合わせ、2017年4月15日にトークイベントを開催した。 Houxo Que、永田 康祐、山形 一生をゲストとして招き「ディスプレイ」を起点に多角的な議論が行われた。 以下にその採録を掲載する。なお、この採録は2017年に中断してしまった文字起こし作業を2021年に再開し、 同年7月7日から開催された展覧会「ディスディスプレイ」( https://filio.cc/ )に合わせ公開しようと準備されたものである。(2024年2月公開)


協力:倉田佳子、西村梨緒葉、フィリオ社(臼井達也、しばしん、竹久直樹、米澤柊)

1はじめに

谷口
トークイベントにお越しいただき、ありがとうございます。今日は、展覧会のテーマにまつわる3名のゲストをお呼びしました。Houxo Queさん、永田 康祐さん、山形 一生さんです。いずれも、近年ディスプレイを素材とした作品を制作している作家です。 まず、今回の展覧会の内容について簡単に話したいと思います。今回の展示では、すべて過去作品で構成しています。過去の作品群の中で共通する問題を1つのテーマとして設定し、そこからいくつかの作品をピックアップして展示しました。2007年から2015年の、9年間の作品を通じて、どのような問題を考えていたかを明らかにしようという試みです。そこで見えてきたのが「ディスプレイ」の問題でした。そこから、ディスプレイを基点にして一連の作品の展開を読み解くということを行いました。このあたりの考察については、会場で配布しているハンドアウトで詳細に書いてありますが、すこし簡単に説明したいと思います。 まずベーシックな問題として、そこに映る映像以前に、ディスプレイ本体そのものの身体があって、それを物理的な「板」として物理的に使っていくという問題があります。これは、2013年ごろ、「思い過ごすものたち」という作品を作っていたころに見えてきた問題です。この「ディスプレイを物理的に扱う」という問題に至るまでの経緯と、それ以後の展開を明らかにするという流れで今回の展示について考えていきました。

jump from

展示作品の中で最も古い作品として「jump from(2007)」「inter image(2008)」 があります。これらの作品は、過去に起きた出来事を記録していて、それがある入力によって呼び起こされ(再生)、過去の出来事が、現在の出来事のように振る舞うという構造を持っています。形や動きが似ていることの「類似」や、別の時間軸での出来事が「同期」することによって過去に起きた出来事が今、呼び起こされている。また、この構造の実現の背後にはデータベースとアルゴリズムという、コンピューターの計算処理があるわけです。これをディスプレイの問題として考えたときに、そうした計算処理によって、あらゆるものが現在として生起する場としてのディスプレイというものが見えてきました。 その後、「類似」や「同期」によって、ディスプレイの外部である現実の世界ともつなげていこうと 「置き方(2008)」という作品を制作しました。今回はその一部分である「オットセイ、本」を展示しています。そこで初めて、ディスプレイが現実世界の「モノ」として振る舞い始め、作品の中のコンポジションを考えるときに、必然的にディスプレイが持っている重さとか厚みを意識するようになりました。これがその後「思い過ごすものたち」という作品に繋がっていきます。 「思い過ごすものたち(2013)」では、iPadやiPhoneが持つ機能や特性を十分に活用するということを強く意識していました。「置き方」では、「同期」を作り出すために、音を動きに変換する回路を自分で組んでいたりしてたんですが、iPadがもともと持っている特性だけで「同期」を作ることが出来そうだと気づいたんです。つまり、板状で、軽いという物理的な特性と、タッチパネル、地磁気センサーなどの外の世界とをつなぐインターフェースを使うことで、やや曖昧な関係だけれども「同期」が作れると。 最後に、「スキンケア」という作品です。2012年ごろから3Dスキャンで対象を記録するということをやっていたんですが、3Dスキャンへの興味がそのまま形になったような作品です。「スキンケア」を過去の作品と並べてみた時、3Dスキャンで生成されたテクスチャデータと、それが3Dデータとしてレンダリングされることの関係は、「jump from(2007)」と同じようなデータベースと再生の関係であることに気づきました。そうした時に、この3Dスキャンで出来上がった3Dモデルの凸凹した表面が「ディスプレイ」のように見えてきたんですね。過去の離散的な視線・時間が現在として凸凹の表目に張り付いているような。ある種のシェイプドキャンバスと言えるかもしれないと。それに、もうちょっと言うとディスプレイっていう単語はそもそもラテン語で「畳まれたものを開く」っていう意味があるんですね。だから凸凹と折られた3Dスキャンデータの表面を折り畳まれたディスプレイと見るのもそんなにズレた話ではないだろうと。
Que

※ディスプレイの語源、ラテン語でdis-plicare。折り畳まれたものを開くという意味

「dis-plicare」
谷口
ですね。僕の話はこの辺りにして、では次にQueくんからお願いいたします。
Que
こんにちは。アーティストのHouxo Queです。今回の展示は、初期の作品からみて10年くらい谷口さんの過去作品が並べられていて、僕が谷口さんの作品を見始めたのは「夜を過ぎて」からくらい。彼がCBCNETというデザインポータルのサイトで、「思い出横丁情報科学芸術アカデミー」という記事をYCAMの渡邉朋也さんとの連載をされていたんですね。それで、その時に連載の中で議題としてこの「夜が過ぎて」の作品を発表なさっている時から彼の作品を継続的に見ています。今回の展示会は、まず感想から入ると、まずタイトルがめちゃくちゃいいです。
谷口
Que
今回のタイトル「超・いま・ここ」は、英題だと「Hyper・Here・Now」ですが邦題と英題どちらから決めましたか?
谷口
邦題が先。
Que
いや、なんか順序が気になったポイントっていうのが「Hyper」を「Super」でも「Ultra」でもない単語でつけたなと思っていて。そこが肝だなと思っているんですね。この展覧会は、10年間の作品をまとめていて、今風で言えば「まとめサイト」だと感じているんです。その彼が作ってきた作品を一度にまとめて並べてリンクを貼っているような状態。谷口さんってポストインターネットの文脈で語られることがよくあると思っているのですが、アーティ・ヴィアカントのイメージオブジェクト以前のウェブ1.0とかインターネットの古い思想みたいなもので実は活動している作家なんじゃないかと思ってます。その「Hyper・Here・Now」の「Hyper」っておそらく「Hypertext」から来てるんじゃないかと感じてます。「Hyper」な「texts」、つまりテキストを超えて別のものに接続している、というような思想があって、そういう時に「Hyper・Now・Here」の「Now・Here」ってなんだって考えた時に結局時空間の問題を扱っている、つまり異なった時空間を結びつけるという1つのそういった彼の思考が表れているのかなと全体を見て感じました。そのどうやって時空間を、どのように、どういうデバイスで超えていくのか、指示しているのかというのはこれから話しながら分かるかなと思います。
Que
僕の自己紹介を特にしてなかったですが、ちゃんと説明すると、基本的には現代美術をフィールドに活動しています。僕の作っている作品は絵画作品なんですけど。支持体をディスプレイにして、いまは現代美術で活動していますが、それ以前はストリートアート・グラフィティのフィールドで活動してました。僕はそういうバックグラウンドを持っていたので、わりと大きな壁や蛍光塗料・紫外線を使って作品を制作していました。最近は、ディスプレイの上にペインティングした作品を制作しています。そういう意味で、先ほど谷口さんから説明を受けたように、ディスプレイという問題を扱っているのでお呼びいただいたのかなと思っています。本日は宜しくお願いします。
永田

※永田、山形が発表に用いた資料は以下からダウンロードできる
発表資料

今日はディスプレイの話をしましょうということで谷口さんに呼んでいただいたんですけど、折角なので今回は展覧会に少し寄せた形で話をしようと思っています。それが展覧会を整理する機能を持っていたらいいなと思っています。 僕は2014年に大学院を卒業してからここ3年間くらいでディスプレイや写真を使って作品を作っているんですけど、今回はその中でも2点選んで説明しようと思います。 いまスクリーンに表示されているのが「Function Composition」という作品です。今年の頭に山本現代で行われた「Malformed Objects - 無数の異なる身体のためのブリコラージュ」で展示した作品です。 それともう1つが「inbetween」というディスプレイを用いた作品で、昨年に本郷で行った個展に展示した作品です。 「Function Composition」は合成写真で、2通りの方法で撮影した複数の写真を1枚に重ねていくというような方法で作られています。 いま図が2つ出ていると思うんですが、この視点1が背景紙を垂らしたところにものをおいて撮る、いわゆるブツ撮りの視点です。視点2は、卓上に置いたものを真上から撮影する、フラットレイと呼ばれるタイプの視点です。1つ目が奥行きのある(通常の)視点、もう1つは奥行きのない平面的で平行投影的な視点ですね。 それを合成するとどういうことが起きるのかというと…この作品がわかりやすいですね。アクリルなどのモチーフを撮影した写真の上にアクリルが重ね置かれているように見えるかと思います。前者が視点1で撮影されたイメージ、後者が視点2で撮影されたイメージです。そして、これを見るとおそらく、2枚の別の視点で撮影された写真が合成されているというよりも、視点1で撮影された写真のうえにアクリル板が重なっているように感じられると思います。なぜそのようなことが起きるかというと、この視点2におけるアクリル板とカメラの関係が、この写真の表面と鑑賞者の目線の関係とちょうど一致するからなんですね。まわりくどい説明になってしまっていますが、要するに、写真を正面から見る鑑賞者の視線というのは、ちょうど視点2における卓上面を見る視線と一致する、ということです。このような視線のトリックによって、2つのアクリル板のイメージが合成されているだけなのにもかかわらず、一方のアクリル板は写真に映ったイメージのように見え、そのイメージ(写真)の上にアクリル板が重なっているように見えてしまうというわけです。またそれに加えて、作品の左半分側、オレンジ色やいくつかの色彩が重なっていると思うんですけど、この部分では、どこまでが写真に映ったアクリル板で、どこからがそのうえに合成されたアクリル板の色彩なのか見分けがつかなくなっている。どこまでが平面的な重なりで、どこまでが奥行きのある位置関係に基づいた重なりなのかわからなくなっていると思います。これはおそらくモチーフに対するカメラの視線と、写真面に対する鑑賞者の視線が近しいことによって起きています。 これらの視点やカメラの話は、ディスプレイと直接的には関係ないんですが、ディスプレイのことを考える上で、そこに表示されるイメージとそれを撮影するカメラのこと考えるのは必要だと思うので、最初のエクササイズとして説明してみました。
谷口
重なっているアクリル板は、いったんそれだけを白い背景で撮影して、それを後から合成することで、ものが背後に置かれている状態で撮影されたのか、アクリルだけそのものを撮影したのか分別がつかないという状況になっているということですよね。
永田
原理的には、写真を印刷した上にアクリル板を配置して撮影するっていう方法のほうが忠実ではあるんですが、最終的な作品データの解像感を維持するために、データを合成するという方法をとっています。起きていることは同じですね。 以上の話を踏まえてもうひとつの作品について説明します。「inbetween」という作品です。アクリル板っぽい質感のオブジェクトが揺れ動いている様子の3DCGアニメーションを表示しているディスプレイの画面上にアクリル版が取り付けてあります。さっきはカメラの視点、鑑賞者の視点と分けて説明したんですが、この作品については少し説明のしかたを変えてみようと思います。 これは映像、これは実物といったように分けて考えるのではなく、映像内のものであろうと実際のものであろうと、この場合だとアクリル板の重なりが引き起こす色の重なりだけを取り出して考えてみます。つまりこの場合ではディスプレイに表示されているアクリル板であろうと実際にディスプレイに重ねて設置されているアクリルであろうと、色の重なりを発生させる素材として同列に扱って考えてみようというわけです。どういうことかというと……こちらの図を見てください。この図では、ABCDというように4枚のアクリル板が重なった様子が様々なパターンで図示されています。一番上の図は、ABがカメラで撮影されディスプレイに表示されていて、CDがディスプレイの画面の上に重ね置かれている状態。真ん中の図は、ABCDすべてが撮影されディスプレイに表示されている状態。そして下の図が、ABCDすべてが現実空間に置かれている状態です。これ全部に矢印が左から右に描かれていますね。左から光がやってきて鑑賞者の目に入る。一番上の図では、左から、鑑賞者にとっては奥からやってきた光がAを透過してBを透過してカメラのイメージセンサーに到達します。この光は一旦データ化されたのちにディスプレイによって再度発され、Cを透過してDを透過して鑑賞者の目に入ります。そういう経路ができますよね。真ん中の図では、左からやってきた光はABCDを順番に透過してカメラに記録されます。それが再度ディスプレイに表示されて鑑賞者の目に入る。最後に一番下の図は、奥からやってきた光がABCDを順に透過してそのまま鑑賞者の目に入る。もちろんカメラやディスプレイに記録・表示される際にデータとして量子化されるために多少情報が変質はするんだけど、アクリル板の透過によって発生する光の現象は、そこで発生する再現=表象みたいな話とは関係なく、ほとんど同じようなものではないか、と言えるんじゃないかとおもうんですね。認識論的なことを一旦度外視すると、光刺激としてのイメージは実物だろうがディスプレイによる再現だろうが実質同じ。

FrogTV

これはなんか面白いなと思ったんですね。 こちらは作品ではなく、iPhoneにミミズの映像を表示したものをカエルに見せている様子を撮影したものです。Twitterで偶然見つけました。このミミズはディスプレイに表示されているもので実際のミミズではないんですが、カエルはこれを実物のミミズだとおもって飛びつくんです。でも実質そこにはミミズがいないので、何度も何度もこの映像のミミズに飛びかかっていく。僕にとってこれが面白かったのは、それまで僕は映像をみてそこに何かが表示されていると認識するのが高度な知性なんだと思っていたんですが、実際にはそれはほとんどの動物が持っている機能であって、むしろそうしたイメージが実物なのかどうかということを判断することの方が高度な知性だったということなんですね。考えてみれば当たり前なんですが。感覚刺激というレベルでは実物か再現かというのは問題ではないわけです。認識の問題を取っ払うとイメージ・オブジェクトの分別ってのは必要なくなる。 これは同じ「inbetween」のシリーズで、先月制作したものです。ディスプレイにグラデーションの映像が再生されていて、その上に設置された浅い水槽の上に色のついた水が少しずつ垂らされているという作品です。ディスプレイから発出した色が水槽の色水を通して鑑賞者の目に入る。そこには何かしら色が見えるわけなんだけど、それがどこまで色水によるもので、どこからがディスプレイに表示されているものなのかということは分からない。目の前にある色が、映像によって再現されたものなのか、実物の色なのかということがわからない、というかそもそもそういう区分が無効になってしまうのが面白いと感じています。認識を取っ払うと映像による再現と実物がほとんど同じになってしまうということだけではなく、僕たちが認識している、再現だとか実物だとかといった区分自体がそもそも不可分なのかもしれないとさえ思えてしまうのが面白いと思っています。 ……と、こういったことを僕はやっているんですけど、以上を踏まえて、今回の「超・いま・ここ」を考えると、こうした再現と実物の区分がわからなくなっちゃうという問題は、フィクションと現実という関係に展開できるのではないかと考えています。それで、僕は、普段小説とかほとんど読まないので付け焼刃な知識になってしまうんですが、もしかしたら関係するかもなと思ったのが、佐々木敦の「あなたは今、この文章を読んでいる。」という書籍に出てくるパラフィクションという概念です。このなかでジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」という小説が分析の対象になっていて……僕はまだ未読なんですけど、引用しますね。冒頭はこのように始まるそうです。「もしきみが家で誰にもかまってもらえない少年なら、きみは浜辺に出て、一夜のうちに訪れた冬景色のなかを何時間も歩き回るだけだ。(中略)それから、きみは家に帰る。うしろで大西洋が、​きみの作品をこわしているのを知りながら」。このように、この作品では語り部である「デス博士」が二人称で語りかけるようにしながらストーリーが進んでいきます。 「きみ」というのは、ふつうに読む分には主人公の「タッキー」という少年であると想像できるのですが、そのように明確には書かれていません。「きみ」が誰なのか不明瞭なまま物語は進むのですが、これが叙述のトリックとして機能するのだ佐々木は指摘します。作品は、主人公のタッキーが物語を読むというような、物語内物語をもつ構造で書かれているのですが、作中で「きみ」という二人称が誰を指しているのかが不明瞭になることによって、小説の物語と小説内の物語の境界が曖昧になりながらストーリーが進んでいくわけです。物語の終盤にタッキーはデス博士が死んでしまうことを予感し、デス博士に向かって、これ以上ストーリーを進めたくないといったことを言うんですが、それに対してデス博士は「だけど、また本を最初​から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも、獣人も……きみだって​そうなんだ、タッキー。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみ​だって同じなんだよ」と返します。ここでデス博士は確かにタッキーに向かって語りかけているのですが、「また本を最初​から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ」というのはタッキーだけではないことがわかる。読者にとってもそうなんですよね。 こういった二人称を用いた小説におけるフィクションの構造を佐々木はパラフィクションと呼んで分析していくわけですが、「きみ」「あなた」といった特異点がフィクションと現実を短絡してしまうというのは、最初の話におけるカメラの視線と鑑賞者の視線の短絡と非常によく似ていると思います。 物語分析の手法がディスプレイや写真を用いた作品の分析にも移植できるのではないか、というのが今回の提案です。とはいえ、これってディスプレイ固有の問題というわけではなく、物語にも写真にも映像にも共通している問題なので、これと谷口さんが指摘するところのディスプレイの問題が本当に必然的なものなのかというのは検証しないといけないな、とも思います。
Que
いや、永田くんと谷口さんって、おそらく構造的にすごく似た部分を持っている作家同士だと思っていて。それは何かというと両者ともイメージと像と表象されたものとそこにある物体という問題を交互に循環しながら、それぞれの問題系を解き明かしていこうとしている。ただその段階になった時に、根本的に絶対違う部分があって。まあ、谷口さんの場合は明らかに量の問題を扱っている。僕は時空間の問題だっていったけど、そこに量があるという仮定が必要だと思っているんですけど、永田くんの場合は、完全にプラトンみたいな話をいままでしていたと思うんですね。そこに像、イメージがあって、それを読み取る認識があってっていう問題。一番近い問題点としてはこれだと思っているんですよ。リディアと遺伝子みたいな。まあ、永田くんは徹底してイメージの問題を語っていたんですけど、ただ途中途中で物質的なものっていうのをあえて経由することによってイメージというのはどこから生まれているのか、どういうふうに私たちに定義されるのかというのを問うているんだと思います。先ほど永田くんが見せてくれたミミズの動画は、結構ああいう実験をバイオサイエンティストの人たちはよくやっていて、それこそジャングルの中に大きな鏡を持って行っていろんな動物に見せるっていうのをやっているんですよ。そういう実験の中で、動物たちは虚像でしかない、鏡に映った自己を、representationした自己だと認識することができないんですよ。ようは自分の目の前に同種の見知らぬ他者が現れてしまったとすごく警戒するんですね。で、共存を理解できる生き物っていうのはかなり限られているんですけど、おそらくチンパンジーくらいから明確に理解できると言われているんですけど。つまり、私たち生物、哺乳類の中でもそういった自分が受けている光のイメージをそれに対して認識的な理解をもたらしているものっていうのは霊長類からだろうと。まあ、大体言われ始めている問題なんですね。それも美術も王道の ナルキッソスの鏡ですよね。だから永田くんは非常に絵画的な問題をディスプレイにむけて話しているんだなと思ってます。感想です。
谷口
Queくんの後半の話は、フィクションの問題と繋がる話なんだと思います。もちろん、それが他のメディアでも転用可能なモデルだろうという永田くんの指摘もそうだと思います。だからこそ、ディスプレイじゃなきゃ出来ないこととは何かを考えることも大事かなと思います。永田くんが見せてくれた、ミミズの映像って、まさに僕が「思い過ごすものたち」で考えたことにつながると思います。「思い過ごすものたち」を制作していた時、チャック・ノリスという俳優にまつわる「チャック・ノリスジョーク」を参考にしていました。いろいろ荒唐無稽なジョークがあるんですが、直接参考にしたのは『チャック・ノリスは、携帯電話を回し蹴りして、アドレス帳の全員を殺すことが出来る』というものです。つまり、ディスプレイ中の世界を貫いて、現実と作用してしまうようなことが出来ないかということを考えていました。ミミズの映像を見た時のカエルに気持ちになるというか。そのあたりまた後半で膨らませて話せたらと思います。では、続いて山形くんに。
山形
山形一生と言います。ディスプレイを用いた作品について話そうと思います。Seeings thingsという展覧会を2016年に永田くんと一緒に行いまして、その際にこのような作品を発表しました。ディスプレイの前に水の入った水槽がマウントされており、プログラムによって水位が変化するようになっています。表側にディスプレイと水槽がマウントされているものがあり、その裏にはバケツに入ったiPadがある。同じ水を共有しているため、表のディスプレイにある水槽に水が満たされていると、バケツの方は満たされていない状態になります。逆も然りです。これは永田くんの先ほどの平面の話にもつながると思います。関係して見えてしまうということ。水があることでディスプレイに映った生物が泳いでいるように見えるわけです。もし水がなければ、浮遊しているように見える。次の作品にいきます。これはどういった構造で成り立っているかというと、まずディスプレイに奇妙な立体が置かれています。立体からは赤い光が発せられており、時たまにぶらぶらと揺れています。そしてディスプレイからは、この作品を展示している空間を上から俯瞰した3Dモデルが映し出されており、立体が発する光と同期してディスプレイに映し出された空間に陰影が発生するようになっています。
Que
本当に気持ち悪いよね。
山形
ありがとう。次にいきます。状況を説明しますと、ディスプレイが床置きされています。裏返ったエイが海辺でうごめいている映像が映されています。ペットボトルがディスプレイにはマウントされています。ペットボトルの中には水が入っています。あるタイミングで、モーターと同期してペットボトルが傾けられ、そしてディスプレイからは水がエイにかけられているようになります。タイミングや角度が合わさることで、ディスプレイとペットボトルが接続しているように見える。ペットボトルが傾く、水が流れる映像が映る、エイに当たる。ペットボトルには蓋がされている状態なのに。
Que
うーん。

2ディスプレイの内と外、同期

谷口
ありがとうございます。なんとなく問題提起もしてもらいながら、今日お呼びした3人の作品とか活動を紹介できたかなと思います。いま3人の話を聞いて思い出したことがあって、以前僕とQueくんが美術手帖の対談の中でディスプレイをめぐるような話をしたと思うんですね。その時に、そのディスプレイの中の世界と、現実の世界が繋がるかどうかという話をしましたね。
Que
話しましたね。
谷口
その時にQue君はディスプレイの中に入れない、って言ってたよね。つまりディスプレイの中に、なにか美少女の像が写っているとしても、それはあくまでも二次元で、入っていきたいけど入っていけないと。
Que
ようは分かりやすい身体的な接触ができない。
谷口
うん。確かその時僕が言ったのは、ディスプレイは電源が入っていると発熱して、すこし温かいからその温もりを使って何か繋がることができるんじゃないかって言った覚えがある。
Que
それね、僕も今回のトークに臨む前に思い出してて確かにあの時、谷口さんがそう転換してきたことに納得はしたんですよ。確かにね、ディスプレイにキスした時に放熱みたいな感じたことあるんで分かるんですけど。でも、それってレトリックだなと思っていて。ロジックではない。だから、でもそれが谷口暁彦の技術だろうと思っているんですよ。今回配置されている紙の中に、作品をどういうふうに考えて作ってきたかっていうのがまとめて載ってあるんですけど、谷口さんの作品は結ばれていない地点というのにリンクを貼るために非常に物事を曖昧化させている部分があって、それが予言的なものであったり、それが同期的またはシミュレーションであったりそれが様々な回路をつなぎながら、でもそれが一貫しているのは物事と物事の境界を非常に曖昧にさせる、でもそれは物事を隔てている壁自体を壊しているわけじゃないんですよ。 ただそこに曖昧にして潜り込もうとするような手つきがあって、その辺がハイパーリンクをどういうふうに貼るかっていう所だと思うんですね。で、その結果谷口さんの作品ってある種の本質的には双方向ではないのに、何か双方向性みたいなのを感じるんですよね。いわゆるメディアアートとかにあるようなインタラクティブと言われるような言葉とは全然違った意味でのリンク感を感じる。山形くんとか永田くんの話を聞いていて、認識として同一のもののように感じられる瞬間があるし、分けて理解もできているというある種永田くんが最後の時に話していたようにメタフィクションのような貫通力っていうのを当然わかるんだけど、実装している作品を見てみると永田くんも山形くんもまずこちらに物理現実って呼んでいる、それがある空間からアプローチした結果ディスプレイというのが反応するというようなディスプレイがパッシブルな存在であると感じていて。そういう意味では一方通行なんですね。一方通行にエンジストさせているだけ、こっちからビンタし続けているだけ、みたいな。ただ谷口さんの違う所と言えば、物事がアクションを起こして何か反応するというのではなくて、それを無理やり何かこう同じ平面の上に置いてしまおうみたいな意図があるような気がしていて。僕の場合は、そんなつながっているわけないだろう、という所なんですよね。結局ディスプレイはものだし見ているものは、光にしかすぎないし、どんなに私たちが想像を光の中に引きつけたとしても絶対にそれが交わることはない。でも交わることがないという前提をどう引き受けるかといった上で、人間の技としてそうやって時代の中に保存していくのか、そのために私は絵画というフレームを選んだりしているんですけど。
谷口
今回僕がみんなに聞きたいなと思っていたことをQueくんが答えてくれたと思います。一人一人にディスプレイの中と外がつながっていると思っているのか、全く切断されたものだと思っているのか。そのアプローチの仕方を聞きたいなと思って、で、いまQueくんが答えてくれたのは、わりとそこはかなり分離されているんじゃないかということですよね。だからQueくんの作品を見る時に強く感じるのは、塗られた絵の具のストロークが浮いて見えるんですよね。なにかに乗っている状態というか画面が様々な色で高速に点滅して、画面に貼り付いたストロークが、浮き上がって、いまにも剥がれ落ちそうな表面として見えてくるというのは、確かにQueくんの意識とつながっている所かなと思っています。逆に永田くんのアプローチは、わりと機能的というか。知覚的な機能をどういうふうに実現するかというか、ディスプレイで起きていることと現実で起きていることを同じプロセスで組み替えるというか、機能をちゃんと合わせるというか。そういうことをやっているように思います。さっきのスライドショーの一番最後に見せていなかった、iphoneが並んで連続して撮影し続けるような作品とかもあって。そこにレイヤーで視覚的なレイヤー構造を、一回現実のディスプレイを挟んだりとか、カメラという痕跡としては残らないレイヤーを挟んでいるのはアプローチとして似ているような気がしていてます。そのへんどうなんでしょうか?
永田
最初のプレゼンテーションでも話したように、僕は「ディスプレイの中」っていうのをあんまり考えていないんですよね。ディスプレイの表面しか考えていなくて、中のことはあんまり考えていない。中に接続できると考えているのかっていう質問にかんしては、それができているときディスプレイはディスプレイと呼ばれていないような状況なんじゃないか、というふうに思います。先程のキスの例をとってみれば、いかに放熱によるぬくもりが感じられたとしても、それはディスプレイでしかないですよね。
Que
そうなんです、俺は美少女とキスがしたくて、ディスプレイとキスはしたくない。
永田
もしそのキスが実在的に感じられたとしたら、それは少なくとも当事者にとってそれは、ディスプレイではないわけです。何が言いたいかというと、谷口さんの「夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる」という作品があるじゃないですか。あれはディスプレイに時計が表示されていて、それが実時間と同期されることによって時計なのか時計の映像なのかわからなくなっちゃう、という作品ですが、例えばスマートフォンに表示されている時計アプリもまた記録ではないにせよ生成された映像ですよね。あれは映像なんだけど、みんな時計だと思うわけです。それはおそらく時計として機能しているからです。「ディスプレイの中」と繋がれるかみたいなことはあんまり関係ない。そのディスプレイとの関係性が時計というプロトコルによって成立してればいい。美少女であれば、身体的接触でも、会話でもいいけど、いわゆる人間とのコミュニケーションのプロトコルが成立すれば、それは鑑賞者には美少女に感じられる。それはディスプレイの中とこちらが繋がるかどうかみたいな話ではなくて、ディスプレイがしかじかの機能を果たせるかどうかという話なわけです。
Que
その対比ってさ、少し飛躍入ってるじゃないですか。時計っていうのはカウントする機能にしか過ぎないわけだから美少女は形態の問題も入ってくるわけじゃん。
永田
なので、この先の議論として、ディスプレイに限らない映像表示を伴うマルチメディアデバイス全体について考えることが必要になってくるように思います。というのも、ディスプレイっていうのは、基本的に出しませんよね。厚くて重いとか、光を出すとか色々あるにはあるけど、基本的な機能は映像の表示です。音はスピーカーを繋げないと基本的には出ないし、カメラもなければ振動もしない。時計とか定規、カレンダーみたいなものは、色とか形のような平面的な要素だけで成立しているので、そういうものに限ってディスプレイは代理できる。平面的な要素についてだけ考えればいいし、ディスプレイがどのようなものなのかということも理解しやすい。一方で、マルチメディアデバイスの場合は、振動したり、光ったり、動いたり、色々なことが起こる。 渡邊恵太さんという研究者がいて、彼はiPhoneとiPadをアクチュエータやセンサーとともに他の道具、例えば軽量カップやスプーンみたいのものと組み合わせてプロトタイピングをしたりしているんですね。例えばレシピに応じて計量カップに線が表示されるとか、計量スプーンの容積がアクチュエータによって変化することによって、レシピ本を見なくても計量できるだとか、そういったものを実験的に制作している。こうしたプロトタイプでは、ディスプレイは単体ではなくて、通信機能やセンサー、アクチュエータとともに用いられている。だから、平面的な問題だけ考える分にはディスプレイだけ考えていればいいけど、より複雑なインタラクションを考える場合には、ディスプレイのことだけ考えていればいいということにはならない。いずれにしても、デバイスがなんらかのものに変身できるのか、という考え方であれば、ディスプレイとディスプレイ以外の関係が構築できるか、ということを考えられるんじゃないかとは思います。そして、それはもしかすると、谷口さんが以前モホリ=ナジを引用しながら話していた、インプット・アウトプットのネットワークようなものも彫刻的な形態の一種なのではないか、といった指摘とも関わるのではないかと思います。
谷口
モホリ=ナジは、「ザ・ニューヴィジョン」の中でこの当時起きていた立体造形、つまり彫刻の表現の変化について書いていたんですね。そこでは薄い金属やガラスなどの周囲の光を反射したり、透過する素材を扱いはじめ、従来の形態に比べて非物質化しいてく流れがあって、その先についに光の像だけになってしまうという事を示唆しています。それを読んでいて、僕は光になるんだったら、もっと先の、より抽象的なものになってもいいと思ったんです。それはある種の情報通信やネットワーク、あるいは計算のような、より直接には人間の目に見えないもの、知覚できないものすらも彫刻にの問題になりうるんじゃないかということを考えていました。例えば、3Dの立体データをコンピューターのソフトウェア上で閲覧する時、マウスなどで操作しながら様々な角度から見るわけですが、その際に仮想的なカメラに対してどのように見えるべきかというのをリアルタイムに、ずっと計算しています。一方、jpgなどの画像ファイルをダブルクリックして開く時、圧縮されたデータを展開する計算は一度だけ行われて、瞬時に全体が現れてくる。これは素朴な絵画と彫刻の鑑賞における時間性の違いでもあるんだけれど、コンピューター側で起きていることを見ると、一度の計算か、常に計算を行っているかの違いとして見えてくる。つまりプリレンダリングが絵画的で、リアルタイムレンダリングが彫刻的なんじゃないかといことが言える。彫刻が見る角度や位置によって姿を変えていくように、常にソフトウェアによって用途や機能を変えるiPadなどのようなデバイスそのものを彫刻的に見ることも出来るんじゃないでしょうか。
Que
リアルタイムコンピューティングをしているということは、イコールではないにしろ彫刻的だということですよね。例えば、僕の作品のバックグラウンドも常にリアルタイムで偏在し続けているわけですけど、彫刻的かと言われたらそうではない。計算が逐一行われているかっていうのが、彫刻的なトリガーではないんだろうけど、それってテキストの最後の方にも書かれていたディスプレイという語源から立体性の話につながってくるんだと思う。 ちょっと話題がそれるんですけど、ディスプレイの語源は disが否定形、 – playでplayはラテン語のplicareが元なんですけど。それが英語では ボルゴ っていう動作になるんですけど。それがさっきいったPRICとかになってくる。1300年にラテン語で使われていたらしいんですけどちょっと面白いのが、名詞になってplico とかになると紙袋っていう意味になる。折られた平面が立体になるんだけど、それは谷口さんの言ってる3Dモデルと近くて。実は3Dモデルって中身の量は存在していないんだけど、折られた平面が立体上を帯びる。っていうものに実はつながるから、やっぱり最終的にそれを展開すると、開けるって形になる。畳まれているって意味もあるらしいですけど。ちょっとそのplicareがおるだけなのか、折りたためるのか、とかまでは調べてないけど。Plicateになると重ねられているっていう意味になるらしいんですけど。
谷口
永田くんがこの展示のオープニングに来た時に話していたことなんですが、最初にゲストでHouxoQueくんと永田くんを呼ぶ予定だったんですが、永田くんがHouxoQueくんと永田くんはただ映像を再生してるだけに近い状態で、デバイスやディスプレイとのインプット・アウトプットがないよねという話をしていました。その時に、偶然山形くんも来てたんですね。で、山形くんの作品はインプット・アウトプットのある構造になっている。僕自身の作品にもインプット・アウトプットのある形態の作品があって、山形くんもいた方がバランスがよいだろうという話になり、今回急遽ゲストでお呼びしました。山形くんに聞いてみたいのは、先ほどのディスプレイを使った作品の中でインプット・アウトプットがあって、入力があることに対してインタラクションが返ってくるっていうのはなんでそのタイミングを合わせるのかっていう意図とか聞きたいと思います。僕にとってもタイミングを合わせる問題って重要な問題としてあるので。
山形
同期して見えるとか見えないとかありますよね。僕のペットボトルの作品なんかは同期が崩れていたら明らかにだめです。これはプログラミング作られているだろうけれど、うまく合ってないんだな、と、作品どうこうよりもメタ的に鑑賞が始まってしまいます。僕にとっては、同期云々って話はどうでもいいと思っていて。この4人においてつながることを言うならば、この今の瞬間作品がこう行われているという状況、Queくんの作品の光が点滅する状態もQueくんがいま正に16万色で光っていることや、永田くんの色が変化すること、水を垂らすこと。谷口さんのも触ったら動くとか、これらリアルタイムで行われる状態がかなり重要なのかと思います。そういうのをどうにか立ち上がらせるために、同期というものが必要になってくる。Queくんと以前、一緒に車に乗った時、ほら、コンテンポラリアートはわかりにくいから、「いまアート」って言ったらわかりやすいんじゃないですか、とかいってたけど・・・。
Que
宇川直宏さんが「現在アート」って言ってるんですよ。で、あれは話の筋がわかりずらいからというより、コンテンポラリアートっていうのは歴史的に明確にどこからコンテンポラリーアートが始まったのかというのは恐らく定義可能だし、現時点の時代性があるからとはいえすなわちコンテンポラリーアートではない、という話。それはいずれか終わるだろうし、次に何がくるかわからないけれど、それをまた違った解釈で捉えていった時にある種の時代性みたいなものっていうのが宇川さんが言ってるような「現在アート」なんじゃないの、と思ってる。コンテンポラリーアートがわかりずらい、というオルタナティブな意味では言ってない。
山形
そうだね。僕が言いたかったのは、「いま」ということ。いま正に作品が挙動しているという状態。平面は壁にかけられたときから凍結しているわけですよね、状態が。黄変とかは厳密にはあるのだけど。シークエンスによってでも、インタラクティブによってでもいいけど、どんどん変わっているという状況が大事なんじゃないかな。
Que
それが例えば描かれたものが静止している、スタティックなものだと決めつけてしまうと、あまりにも乱暴な気がする。
谷口
Queくんの作品はやっぱりディスプレイが発光して成立している?
Que
いや、そういうことでもない。そもそも絵画っていうのは明確に描かれた地点から動かないものではなくて、その様々な空間・様々な光の中で変化し続けているもの、物質なので当然。それの総体を絵画というわけです。この色評価用蛍光灯でぴったり色温度を合わせてみたのが絵画ってわけじゃない、様々な空間・様々な状況・様々な心情の中で見られる存在であるというのは明確に、印象派の時にアヴァンギャルドについてステファヌ・マラルメが語っているんですけど。 テキストがいまないから正確なことは言えないけど、ただそういった前提の上で私たちはただ同時に光をコントロールする技術があると、特にディスプレイや様々なマルチメディアの技術を含めて。そういう事実を受け入れた状況で、その事実の上で絵画はスタティックなものではない、というのを引き受けた上で私たちはどういうふうにいまの時代の変化というのを絵画の中に再現できるのかいう問題を作品で行っています。だから絵の具は静止しているけど、ディスプレイは動いているよね、みたいな二項対立は作ってない。
山形
展示って基本的にはその場でしか見れないわけじゃないですか。その場に置かれたものを実直に見るのみだから。絵画が実は変化しつづけているもので云々とか、神秘的に僕はあまり絵画を見ることができない。
Que
それってさ、神秘ではなくて単純な事実で。同じような実空間の常に同じような光が降り注ぐということはありえないと。
山形
展示において照明って基本的には変わらなくない?
Que
だからそれを支配することができるのは、現代だと思うんですよ。かつての絵画っていうのは、そういった様々な外的要因によって変わってきたと思うんだけど、いま私たちはそれそのものすら支配できる時代にあると。その中で、絵画を思考しようとしてる。その文脈はちゃんとある。それを単純に絵画として、いま私が見てる時に動いてないよね、だから絵画は動いてない、という知覚表象的な問題に帰結させると非常に議論として歴史をも無視した貧弱な思想になるから、そうじゃなくて歴史も踏まえた上でどうして動いてしまうのか、なぜ私たちは光を用いてものが動かしていると感じらられてしまうのか、という連続性とかの問題の方がいまの話だといいんじゃないかなあと思いまーす。(笑)
4人
谷口
Queくんの作品もあれだけの色数をランダムに発光し続けていて、それが現実的にありえない光とかも使って常にバリエーションを出し続けるっていうのは、常にいま起き続けているという問題でもあると思う。 山形くんがさっきいってたように、お互いの作品はスタティックじゃない、っていうのが結構重要なんじゃないの、というのはそこで生起しているっていうのが重要だって言ってたんだよね。
Que

※「days and nights」2011 Norimichi Hirakawa + Que Houxo
http://counteraktiv.com/wrk/dsns/

僕がディスプレイのシリーズを作る前に、それを作る一番のインスピレーションになった作品が1つあって、それはメディアアーティスト・平川紀道さんとの共作なんですけど。まだ一度しか発表してなくて、メディア芸術祭ドルトムント展が2010年に開催された時に彼と一緒に作った作品で、横幅9M、縦幅3Mの大きな壁画で僕がそこに直接蛍光塗料を持ってペインティングを行う、でその壁に平川くんがぴったり映像を出してくれるんだけど、常に彼が書いてくれたプログラミングでサイズ的に3cm角くらいでマッピングした空間が常に色同士が影響しあって変化し続けるみたいな。 大きなコンセプトとしては、僕がその蛍光塗料を使って描いているシリーズの「days and nights」という作品。「昼と夜」、分かりやすく言うと。私たちが見ているものは同一のものでも変化が起きている、っていうことをグラフィティライターで渋谷とかで歩いている時に気付いたんですね。深夜3時、昼の3時のセンター街っていうのは全く人の量も違うし街の見せる表情も違うし、1つの空間であるのになぜこんなに変化してしまうんだろう、というそういう活動から蛍光塗料を使って紫外線しかない空間と、紫外線がない空間は同じ絵でも違うっていうことを発表していて。それを平川紀道さんと一緒にやるにあたり、「day and night」は「昼と夜」という2つのものの対比だったんだけど、平川さんはプログラミングでいかようにも変化させることができるから、ある意味平川紀道という惑星の上で起きる幾千もの昼と夜の変化の中で僕が作業し続ける、ようは1日の変化っていうのを1時間の中でぎゅんと圧縮して1年をぐんぐん回してしまおうっていうストレスフルな環境だったんですよ。 自分が見ているのは、蛍光塗料の白色っていうのはちょっと水色がかって発光するんですけど、それがプロジェクターとかの色温度に合わせると完全に同じ光だから色が合致してしまって、永田くんの問題にも近いんですけど、蛍光塗料の発光なのか、プロジェクターから僕に届く光なのかっていうのが光も輝度も完全に合ってしまうと分からないんですね。だから自分がどこを描いたか、かいていないかわからない。だから常に見失っていて。ある種の印象派の時に起きたこと、私たちが生きている実空間で常に変化していて絵の具はそういうものに依存しているというのが、科学技術によってある種のコントロール下における、だとしたらディスプレイが表象可能な色数が1677万7216色、24ビットの色それがその数だけ変化し続ける絵画が再生可能なのではと思ってます。
谷口
オープニングの時に永田くんとトークイベントでどういう話をしようかって話をしていた時に、僕らがやっているアプローチは、結構それぞれ手法が違うので、おそらくそれは腑分けができるんじゃないかなと思ってます。つまりこれはディスプレイを身体的に使ってますよ、これはディスプレイの機能を使ってますよ、とか。光に着目してますよとか区分けできると思うんですね。おそらくこれは今日山形くんがダイヤグラムというか腑分けしてくれているものを持ってきてくれています。
山形
話を聞いている中でみんな頑張ってるから
Que
頑張ってる笑 確かに、僕とか谷口さんって非常に意識的にディスプレイの物質性みたいなものにたどり着いている節があって。
山形
「ディスプレイ」って、谷口さんの作品をよくよく見たら、あてはまらない言葉のように思えてくる。谷口さんの作品ってほとんどがipadで行われていて、センサーやカメラが内臓してあったり、GPS情報とかが集まっているデバイスなわけです。だから、単純に投映するのみとしての意味を持つ「ディスプレイ」とかで云々言ってると誤読しちゃうかもしれない。
Que
いや、それは違う。それは谷口さんの全貌を理解しようとしたときに、ディスプレイっていう問題系だけでは理解できない。谷口さんと前にそれは話したんですよ。谷口さんとディスプレイについて話した時に、ディスプレイというもの単体ではディスプレイは実は存在できない。要はディスプレイっていうのは、常になにかしらの演算機械を求めるし、映像資料っていうのを求め続けているから、実はディスプレイっていうものがあるときには、すでにコンピュータが予見されてるんですよ。同時にそれはインターネットにまで広がっていくだろうって、谷口さんは言っていて。その考え方は僕は正しいと思っていて。 ディスプレイっていうものを言った時にそれは、ニアイコールでコンピュータまで貫通するはず。ただ、そのときにディスプレイって言われる表象、またはその物体性みたいなものがなんなんだろうっていうのは考えるべきだと。
谷口
そう、だから僕が、ディスプレイっていうのを唐突に議論の中で使ってしまってるから、誤読する可能性はあるんだけども、やっぱり結局は、コンピュータなりネットワークみたいなものがあって、それを人間の目で見える形で表象するものとしてのディスプレイだということを前提にするってことかな。だから普通にDVDプレーヤーで再生してますよ、っていうだけじゃないのは、明らかにそうかなと思ってて。 で、ちょっと今日山形くんが用意してくれた図が面白いから、そのあたり山形くんの話を聞いてみたいなーと。

3ディスプレイへのアプローチの違い、分類

Que、谷口、永田、山形4者の、それぞれディスプレイを使用した作品の分類図。永田と山形による制作

永田
これは谷口さんと永田くんとQueくんと僕の4者の作品をダイアグラムのように配置した図でして、ディスプレイとモノが関わってると思われる、そういった作品を集めて、どのような分類が可能なのか把握するべく作ってみました。永田くんが僕のアトリエに遊びに来てくれて、2人で考えたものです。
山形
たぶん今回の展示に関係するのは②と③なんです。あと⑤かな。②が「同期・関係して見える」もので、これは実際としては、たとえば谷口さんの扇風機の風とティッシュはまったく同期してないわけですよね。扇風機の風をいちいち値を取ってティッシュを云々…とかじゃなくて、ただコンポジションを組むことによって、同期・関係して見える。僕の水槽の作品もそうです。水槽とディスプレイは分離したもので、同期はしていない。永田くんの作品においてもそうです。同期は働いておらず、そう見える、という状態。

次に③。これは完全に同期しているものです。谷口さんの鍵の作品。これは完全に、鍵が床にあたったときに、振動がチリーンって鳴ったりする。僕のぶらぶら作品もそうです。次に永田くん、⑤のデバイス系をいいですか。
永田
ここまでは基本的には表示されている映像とその周囲の関係っていう二項対立で考えられるものです。①だけ⑤と似てるところもあるけど、②③は特にその構造が顕著で、映像に表示されてるものとその周囲、内部と外部という関係で捉えられる。④もそうですね。 ⑤「デバイス系」は、そこに表示されるイメージを扱っているというよりも、iPadみたいなディスプレイを付帯したデバイスで、その機能を扱っているタイプのものです。「C」という谷口さんの作品があって、この作品では、GoogleMapが扱われているんですが、作品において地図のイメージが重要であるというよりも、GoogleMapで使われているGPSとか電子方位磁石とかが重要になっている。「B」という水を使った作品もそうですね。ディスプレイが、というよりもタッチパネルみたいなインプットモジュールやセンサーが重要になっている。ディスプレイ、画面っていう単位ではなくてデバイスっていう単位が重要という意味では、僕の「14の撮影されたイメージ」もここに含まれるかなと思います。ディスプレイっていう単位じゃ作品を捉えられなくて、この場合だとiPhoneっていう単位が重要になっている。 最後の⑥「カメラマッピング・キャリブレーション系」は、ディスプレイを使っているけど、今回の議論にはあまり関係しないかもしれません。
谷口
⑦のハテナっていうのは?
永田
なんかこの作品(「夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる」)だけちょっと他と様子が違うような気がして、たぶん②か③なんだろうけど、うまく分類できなくて別途⑦にしてみています。
Que
でもこれはね、異質ですよ⑦は。谷口さんはテキストで直球すぎるって言ってたけど、僕はすごいいい作品だと思ってて、こういう直球投げられるんだ、っていうのがあったな。
山形
最初僕と永田くんが分類を行っていたとき、この谷口さんの「inter image」と、マリオの作品と、時計のやつが、一緒のものだって定義しちゃったんです。それを僕らはなんか、「時間系」だったかな、過去と今を接続する系みたいなふうに定義し直しました。これはやっぱり、今まさに僕らの手っていうのを、値を取って同期しているといえるわけです。それによってマリオも同期してる。谷口さんの過去と同期している。時計の作品は、③にも②にも分類可能だとも思うのですが、曖昧なままです。フェリックス・ゴンザレス=トレスの時計の作品がありますよね。時計が二つあって、違う人間同士が同じ時間を共有しているといった、すごいロマンティックな良い作品です。だけどやっぱり、状況としては同じなんだけど、片方がディスプレイというだけで、すごい……なんというか虚無的というか、かなりおかしな状況になっている・・・。
Que
虚無的(笑)
山形
そこで、永田くんがすごく面白い発見をしていて……
永田
なんだっけ?
山形
ストーカーの話だよ。
永田
ストーカー?
山形
どうやら覚えていなかったようです。えっと、僕らは基本的に個として存在しています。部屋におかれた時計もまた一つの個として、動いてるわけです。個として存在している、ある種スタンドアローンである存在が、全く同じ時刻や時を共有していることって、とても奇跡的なことだと思うんです。だけどディスプレイだと、演算されていたり、同期がされていたりとか、基本的に他者に従うわけですよね。だからストーカー的なんです。
谷口
ディスプレイのほうがね。
山形
だから全然、一個体同士がたまたま同じ時間に出会ってしまったっていうよりかは、ディスプレイのほうが追従して、そうしているっていうふうに仕向けてる状態になっている。
Que
でもまあ、ある意味リプレゼンテーション、表象するっていう行為がさ、自体がストーカー的なんだよ。だって椅子の絵を描いてるとき、椅子のストーカーみたいなもんじゃない?……わかる?言いたいこと。
山形
わかんない。
Que
要は表象するっていうのは、何かをもう一度作り出すってことだから、何かに従うの。
谷口
だから、似せなくちゃいけないって言うのがあるんだろうなって思って。 同期の問題ってふたつあると思って、ひとつは、タイミングが合って同期すること。そうすることによって異質なものが、同時に起きている、だから因果関係を持つように見えると。 もうひとつは、形態とか動きの類似を見せること。そうすることによって、違う時間軸に起きたことが、今の時間軸で起きてるかのようにというか、うまくこう、フェードイン・フェードアウトとか、つなげられてしまうっていうのがあるのかなとは思ったりしてて、その両方が同時に起きちゃってるから、時計のはよくわかんないっていうのもちょっとあるのかな。 しかもそれが結構、ストーカー的にやってるにも関わらず、追従してくるんだけど、過去の出来事が今を追従しているっていう気持ち悪いことが起きてる。
Que
しかもなんか、時計の機能を、かなり誤差を少なくして出してしまったがゆえに、ディスプレイの中で表象されてるもの、それそのものが時計でもありえるので、過去ではあるのだけども、しかしいま私が見ているものは過去ではない……という微妙なゆらぎが生まれていて、どこの時制に接続しているのかよくわからないものになっているっていうところで、でもそれってある種、リプレゼンテーションしているときに実はそれは、時間っていうのは飛び越えてるから、その、ある種ディスプレイのそういった機能みたいな…まあ山形くんがストーカー的とも言っている、そういったものを、すごく忠実に露見させているものだと思うし。
永田
実は、⑦を分類できなかった理由がちょっとあって、これは僕の好みの問題もあるのでフェアな話ではないんですけど……僕は③をあまり面白くないと思ってるんです。というのも、ちゃんと分析すればするほど、映像とその周囲が(何らかのデバイスによって人為的に)同期されているという事実がことさらに強調されて感じられてしまうと思うんですよね。タイマーやトリガーみたいなものがあって、うまい具合に同期してんだろなあ、というように。もちろんそのうえで面白い作品、そうでない作品というのはあるんだけど、僕にはまずそのギミックに少し醒めてしまう感じがあります。 それは「あなたは今、この文章を読んでいる。」に出てくる、メタフィクションとパラフィクションの話とちょっと似ていると思うんですよね、どういうことかというと、メタフィクションってたとえば物語内の登場人物自身が物語の中にいることに自覚的だったり、物語内に作者が登場したりするわけですが、ふと冷静になると、結局そういうふうに書いている作者がどこかにいるんだよなということに思い至ってしまうわけです。小説に出てくる「わたしは今、この文章を書いている」っていう文章はどこまで行ってもフィクションなんですよね。そこに醒めてしまう。同期されている作品にもそれと似た感じがあるような気がしています。パラフィクションでは、読者は自分自身なので「あなたは今、この文章を読んでいる」という文章は読者自身にとって物凄くリアルなんです。……と、まあ、別に(③を)そんなディスるつもりは、ないん、だけど……
会場
(笑)
永田

評論家gnckによるtwitterの投稿https://twitter.com/gnck/status/853170510481379330

(笑)。③は、作者が外部にいて同期させている事実が見えてしまう。それに対して、⑦が面白いのは、鑑賞者が時計を見ることが作品に密接に関係しているんですよね。 それで、僕いまツイッターの投稿を確認しながら話しているんですけど……名前出さないほうがいいのかな。「時間そのものは決して可視化できないのだから、撮影した時計も、デジタル表示される時計も、アナログ時計も並列できるはずだよなぁ」って言ってる人が、いるんだけど……
Que
gnckさんですね。
永田
……まあ、そうだと思うんですね。時計っていうのは機能だから、鑑賞者との関係が時計的な形で成立していさえすればいい。映像だろうが実物だろうが、どちらも時計としてふるまってしまう。そしてそれが、他でもない「見ている私」の問題になっているのが面白いなと思います。そういう意味で、この作品を同期系に分類するのには違和感がある。やっていることは同期なんだけど、なんか違う。コンピュータに付帯する時計機能が、(時計のグラフィックではなくて)過去の(時計を撮影した)フッテージによって表現されているといったほうが正しい感じがする。
谷口
知覚っていうかもともと機能が違うものを、両方とも同じ機能を有する状態にしているっていうのがややこしくなってるっていう気がする。
永田
個人的には、面白いのは⑦と、映像を表示するデバイスに意識的になっている⑤と、⑦とわりと似た構造を持っている①あたりが、展開可能性のある領域なのかなって思う。もちろん②も、ファニーな面白さがあるとは思うんだけど。
谷口
さっき永田くんが言ってたようなフィクションの問題も、ほかのメディアでも展開可能だけど、ところがそれを映像としてディスプレイに投影したときに、なにかしら光学的、視覚的な役割にいかなくちゃいけない。その、さっき言った、①のほうに可能性があるんだっていうのはたしかにそうで、わりと永田くんが今注力してるのは①だし、Queくんが入ってくるのもわかるというか。

4ディスプレイの物理的条件

Que
みんなさ、ディスプレイって言いながら結局、ディスプレイの中のプログラムの話をすごいよくやってたよなって思ってて。たとえばディスプレイのバックライトが、横から出てんのか真下から来てんのかみたいな、そういう違いとかって全然誰も気にしてないような気がしてて。
谷口
あ、バックライトって構造の話?
Que
そうそう、ていうか、だってディスプレイって構造体なんだからさ、構造の話とかさ、しないといけないと思うし。なんか、ハードウェアの話に見せかけながら実はソフトウェアの話してる印象があって。
永田

※ucnv はデータを意図的に破損させる「グリッチ」による表現を行うアーティスト。液晶ディスプレイの中心にボルトを打ち、壁に固定した作品がある https://ucnv.org/

ディスプレイという物体自体というよりも、実物を見ることと再現されたものを見ることが同時に発生するときに何が起きるのか、みたいなことのほうに僕は関心がある。ディスプレイの物質的な側面にフォーカスしていくと、たとえばucnvさんみたいにディスプレイに穴開けるとか実際に切っちゃうっていうアプローチが見えてくるけど。
Que
そうそう、あれどうやって分類するのかっていうことですよね。
永田
ここでは分類できないですよね。もしかしたら⑤に無理やり分類することはできるかもしれないけど、でもちょっとやっぱり違う。というのも、ディスプレイの物質的な組成に注目すればするほど、ディスプレイの表示デバイスとしての側面からは離れていくことになる。ディスプレイが何かを表象=代理できるという能力を度外視して、お前は他でもないこれだって言って穴を開ける、みたいな。
Que
いやでも、そのくらいがやっぱラディカルで僕は素敵だと思いますね。
永田
それはQueさんに近いところもありますよね。Queさんは、ディスプレイに何の具体的なイメージも表示させないわけですよね。単なる光る板として扱っている。
Que
光る板だというか、ディスプレイというものに、たとえばなにかしら映像ソースを流し込むわけじゃないですか。まあなんでもいいですよ、猫ちゃんが遊んでる映像とか。でもそういった、流し込んだものに僕が絵の具を載せた瞬間に、「ディスプレイの上に絵を描いた」んではなくて、「猫の映像の上に絵を描いた」という認識が出てしまう。 要はディスプレイっていう物体そのものが、何かの映像ないしそういったものを受け付けて、演じている瞬間っていうのは、それ物体そのものを透明化してしまうんですよ。透明化してしまうと、ディスプレイそのものに絵を描くことっていう、そういう問題提起みたいなものが不可能になってしまうから、だとしたらディスプレイが何も演じていない状態、ディスプレイがその発光性だけを強調する状態としてはなんなんだろうとしたら、あらゆる画像が表示可能な、元になっている、発色可能な色数すべてを、ランダムに、リフレッシュレートに従って表示し続けるっていうことになった。 で、結局僕はそのディスプレイの中の問題っていうのをはっきり言って全然問題にしていない作家で、それが同期していようがしていまいが、結局私たちはなにかしら擬似同期を見つけて、しちゃったりするし、そういうことが重要で、人間の認知とかそういうことじゃなくて、ただ単にこれが光を発しているっていう事実を、どうやってちゃんと受け止めるかっていうほうが重要で、光がどういった性質を持っているのか、そういうことを考えたい。 で、だから永田くんは先にエクスキューズしているから、こういうことを言うのはちょっと、もしかしたらよくないんだけど、この分布表は非常に偏っていて、ある程度のリテラシーのある人間たちは、製作者側の態度から見た分類表なんですよね。それも非常に偏ってるし。そうではなくて、もっと、物体そのものの置かれ方であったりとか、光り方だったりとか、そういった部分で見るっていうのも重要なんではないかな。
谷口
ちょうどここ数日Queくんが、プリパラだっけ、っていう子供向けのアニメーション、アイドルアニメがあって……もとはゲームなんだっけ、端末?
Que
元はゲームなんですよね。アーケード機があって。
谷口
それが、けっこう大きめのハイビジョンのディスプレイが、あれが縦に使われているという話をしていて。
Que
40型くらいの、ベゼルがほとんどない。
谷口
それがこう、直立してて、そこにほとんどキャラクターの全身の姿が写ってる。 僕もゲーセンに見に行ったんだけど、これ結構衝撃的で、Queくんがディスプレイの物質性を考えた時に、今まで横だったものが縦になったっていうのがだいぶ違うんじゃないかって話をしてて、それはそうだなと思ったんだけど、つまり横っていうのは、絵画の習慣で言うと風景画を描く時のフォーマットとしてあって、縦になるとポートレートになる。それだけで奥行きがだいぶ広い空間になる。 縦で女の子ばーんってでかく写すと、その姿が画面それ自体よりも手前にかなり寄ってくるっていう感覚がある。ディスプレイ自体の厚みとかそのサイズにだんだん映されるものが近づいてくるのが縦のフォーマットなんだなという。 たしかにQueくんが言ってるように、今わりと僕ら3人はあんまりそういうコンテクストでやってないからこういう分類になってくるけど、絵画平面としてのディスプレイっていうのを考えたら、縦か横かとか床に置いてあるのかっていう問題とかも、けっこう実はこの分類の中に入ってくるんだろうなって思ってて。 ちょうどいま僕の教えてる大学の三年生が、インスタレーション作品の中でディスプレイを縦して、GoogleMapを写していたんですね。普通にPC版の、GoogleMapなんですけど、それを床に写して縦で映していた。で、なんでこれ床に置いて縦なんだろうねって話をしてたら、やっぱスマートフォンってこう持つからじゃないですかねっていう話をしていて、そう思うと自然なんですよね。アプリケーションの画面が全画面で映ってて床に落ちてるっていう。でかいiPhoneが落ちてるっていう。 まさにそういう、大きさとか縦とか横っていう問題が、ここにも入ってくる可能性はけっこうあるだろうなと。
Que
そういう、アクチュアルにどうなってるのかってけっこう重要で、たとえばプリパラのやつとかって間違いなく、スマホ普及してる時代性があるから縦になってるんですよ。 で、しかも、アイカツとプリキュアっていうゲームがだいたい並んでて、アイカツのほうは最新作だけどもともと出自は時代的には前ですね。プリパラのほうはわりと新しいほうで、けっこうアイカツのほうは、アニメーションが強い時代にドライブしてたコンテンツだから、演出が全部アニメーションチックなんですよ。 だけどプリパラはそれ以降のものだから、演出がなんかこう……アニメーション的な、アングルとかじゃなくて、いかに色をばきばきに表現するかみたいな方向に突き抜けちゃってて、もう女の子の衣装とかも、ほとんど輝度振り切って明滅しまくってて。 なんかそれを見た時に、なんだろう……前はディスプレイの中にある世界みたいなものを求めていたんだろうけれども、そろそろ、ディスプレイの物質性みたいなものがより強調されてくるようになった、ある種その、触っているからこそなんだろうけど。ものがどういう光を発しているかみたいなところで、完全に子供を捕まえに行ってるのが見えたし。 あとはなんだろうな……あとはやっぱり、前に谷口さんと話したときに、今はスマートフォンがもっとも強い時代性を持ってる物体だから、ある種その、小さい画面が重要なんじゃないかって話を僕にしてきてくれたんですよ。要は、俺の使ってるディスプレイってだいたい、小さい方でも40、大きいのだと80とか使うんですけど、大きいディスプレイを使ってるとスマホとスケール感が合わないから、時代性みたいなものとずれちゃうんじゃない?みたいな話をしてくれたんですけど、でも最初にアーケードを見た時に、縦型っていうだけでスマホと直線上につながるみたいなものが見えたから、案外、大きさというよりは向きの問題なのかなあと。
谷口
そういう可能性もあるかもしれないね。
山形
僕は薄さだと思うんです。ポータビリティ。ブラウン管だったらけっこう、アッサンブラージュだったり、立体性があるからブルース・ナウマンのような表現って生まれたわけだろうし。ディスプレイは薄さを獲得したことによって平面性がはじめて立ち上がったと思うんです。キャンバスの問題とかにも。
Que
まあ実際、表面がフラットだからね。ブラウン管はさ、フラットなものはあるはあったけどだいたい基本的には湾曲してたし、画面の中の平面性みたいなものって非常に見出しづらかった。むしろ、Youtubeとかの語源になったTubeっていうのは、中が筒状になってるからっていう理解がそもそもあって、その中に空間があるっていう理解のほうが平面より強かったんだよね。
永田
チューブって真空管のチューブですよね。
山形
調べてみたんです。こういったディスプレイと何かを組み合わせた作品が、海外とかにどれだけあるのだろうって。でも、あまり見当たらなかった。結局エキソニモの作品や谷口さんの作品にヒットすることが多かった。もちろん僕が知らないだけなのはあると思います。でも、ミームとしてディスプレイというものが特別、日本では機能しているのかもしれない。僕はビデオゲームとかをたくさんするからかもしれませんが、ゼノギアスとかクロノクロスとか、いろんな作品でディスプレイが強大な敵の演出に大きく関わることがあるんです。指をパチンってしたら目の前にブォワン!とか
Que
あはははは(笑)
山形
明らかにあるんです、わかるよね?ピッてやったら、ゥァンッ!!とか……
谷口
それがディスプレイってこと?ガジェット的なものとしてのディスプレイ……
山形
ネイト・ボイスとかその他もろもろの作家とかは、ディスプレイそのものに装飾を施したりとか、周りを粘土でこねてきもちわるくするとかはあるんだけど、そうじゃなくてペットボトルとか扇風機とかで同期して云々……とかは見つけられなかった。
谷口
けっこう、若い世代っていうか、海外の動向見てるとVRに行く傾向多いんですよ。だけど僕らみたいに、VRとかでみんなが没入しようとしている時代にに、いやこれはただの板だ!っていう……(笑)、これはなんかけっこうレアな感じもしてて、さっきも言ったみたいに、海外にはネイト・ボイスくらいしか見当たらないっていう。僕が今回集めたのは、そういう動向をちょっと一度まとめたいっていうのもあって、さっきの山形くんとか永田くんが作ってくれたチャートなんかも、見るとけっこう壮観だなと思ってたんですよ。 今回の僕の裏テーマとしては、今言ったように、海外にそうした作家ってあんまりいないんですよね。ディスプレイにこだわってる人たちって。もしかしたら今僕らみたいな人……永田くんとか、エキソニモがいたりとか、あるいは小林椋くんとか今そこで聞いている時里くんとかも含めて、ディスプレイにこだわる人たちっているような気がしてて、なんかちょっとディスプレイ派っていうのが、ダサいけど(笑)……あるんじゃないのっていうのがわりと今回の裏テーマというか……。
Que
須賀悠介も全然カウントできますね。
谷口
で、さっきのディスプレイ派分布図みたいなのが、どう定義できるか分からないけれど、ひとまずそうした傾向や共通している問題を「ディスプレイ派」のようなものとして 言えないかなっていうのが今回の裏テーマでもありました。 でまあ、せっかくみなさんいっぱい来てるので質問とかあるいは問題提起、意見がありましたらお伺いしたいなと思います。

5質疑応答

質問者1
今日お話を聞いていて思ったのが、ふたつの、時間の話が並行しているなという点です。ひとつが現象学的な時間、つまり、そこにものがあってそれを見ている、というある意味フッサール的な時間で、たとえばQueさんが、絵画がつねに光の中で変化している、というのはその時間の話です。ディスプレイの内外の要素がいま見ている私にとって同期して見える、という、途中のスライドでいえば②の分類もそういう話。で、もうひとつが存在論的な時間、つまり、ある出来事を撮影したとき、その出来事は、撮影の時点より絶対的に過去になってしまう、という時間関係です。「未来のものを映した映像」を見ることはできない。何かを撮ったら、その時点で撮られたものは、撮影行為よりも昔になってしまう。つまりディスプレイの画面が、映された世界と映している世界という、二つの時間を隔てる瞬間のように機能している。これはたぶん、永田さんの挙げていたフィクションの話だと思います。つまりフィクションに書かれた内容は、過去と言うかは置いといても、絶対に「読むこと」とは、少なくとも存在論的に違う世界にある。書かれたものは、読むより「前」に起こっている。この二つの時間、いまの言い方だと「現象学的な時間」と「存在論的な時間」が今日のトークで出てきていて、みなさん弁別しながら話していたと思うんです。とくに時計の作品は、時計というもの自体の機能が、それこそ時間そのものを表象することでしかないから、そのふたつの時間の問題、そこに示されている時間と、それがいま見られている時間とがかなり絡み合って、分解できない。そういう構図がずっとあったと思います。展覧会のタイトルの「超・いま・ここ」の「いまここ」はベンヤミンの「アウラ」からですよね。
Que
うん、一回性の話ですね
質問者1
「アウラ」の議論は、芸術作品を観ている「今」という時間、をエステティックに捉える、という話だったと思うんですけど、今回の展示作品で「ディスプレイ」というものが前に出されたことで、小説のように基本的に存在論的な関係、つまりこちらの世界と別の物語世界との関係とはちがって、ディスプレイに映像が流れていることを肉眼で、いまここで見ているという、現象学的に見ることの位相が出てきています。だからこそ、存在論的なだけでなく現象学的にもそれを見ているという、二つの時間的関係をどう提出するかが、今日話されていた、ディスプレイの問題になってきているのかな、と思いました。途中で、Queさんが「プリ」の話をしていましたよね。ディス「プレイ」の「プリ」。
Que
あ、そうですね。折るっていう。
質問者1
「プリ(pli)」はたしか、もともとは「襞」って意味ですよねもともと。ドゥルーズが、たとえば時間が潜在的に「襞」というような話とも、ディスプレイと時間の話は繋がります。が折り開かれてくる、そういう問題としてディスプレイが捉えられそうかな、と思いました。
Que
面白いですね。ちょっと、そのプリの話あとで聞かせて。 あの、ディスプレイと時間をどうやって結びつけるかっていうと、もう一言で言えて、ディスプレイの数だけ今があるんですよ。要は、僕は最初に、谷口暁彦はハイパーテキストの思想でドライブしてる作家だ、って言った通り、さまざまな今を、ディスプレイの数だけ接続してそこでネットワークを作っているだろうって僕は判断していて、だからその意味では、どこに接続しているかが重要なのではなくて、ディスプレイがあるということそれそのものが、それを保証するということだと思っています。
質問者1
それぞれが窓として界面になる、ってことですね。別の時間が、それこそ存在論的に別にあって、たがいに界面になる。エリー・デューリングがベルクソン越しにアインシュタインを引いて、いろんな時間がつながる「共在」とかを言うのに結構近い。
Que
ていうかそもそも僕らが生きている空間自体、時間が一定ではないし、もっと歪みがあるものなので、だからこの今の時間っていう、乱れがない時間のタイムラインがあるっていうのは結局フィクションで、実際、物理学的には時間っていうのは物質性に非常引きずられて大きく変化してしまう、それこそ赤道と南極では時間の進みも違うわけなので、だからそういうことを考えたら、ディスプレイというその空間の中で定義可能な空間の中に時間が存在する、時間がまた別の流れがあるだろうと思うし。でもそれを僕は意識的に、かなり無視しているふしはあって、 それはやっぱり、絵画制度に入るためなんですよね、完全に。僕がやってることってプロトコルとして使ってるから。ディスプレイにそういうものを持ってることは当然理解してるし引き受けてるんだけども、それを僕が弁明する必要はない。むしろ、ディスプレイを歴史の中に突っ込みさえすればそれは自然とドライブかかるだろうと思っているから、歴史に通すために、絵画というのを使っているっていう感じですかね。僕個人として。
谷口
他のお二人も、何かありますか。
永田
僕はめっちゃ付け焼き刃なんですけど、小説において現象学的な時間と存在論的な時間の調停が行われていないかっていうとやっぱり微妙なところがあると思います。今日来るにあたって円城塔を読んできたんですけど……(笑)。ご存知かもしれないのを承知で一応説明すると、彼は指示書みたいなのを書いてるんですよね。次のページでこうしろとか、ああしろとか。それは要するに他でもない読者に向けて書かれたテクストなわけです。こういうテキストの場合、文章はまさにいまここで駆動してるんですよね。 まあなので……時間の問題をディスプレイ固有と言っていいのかどうかっていうのは、ちょっと簡単には判断できないなというのは個人的に思いました。
質問者1
後出しっぽいですけど、基本的に叙事詩のようなテクストはそのようになっていなかったり、メタフィクションはそうした機能をあえて無視しますね。永田さんが③をつまんないって言ったのは、たぶんフィクションで話が終わってるからだと感じました。こちらが現象的に読んでいる・見ていることが関係に入ってきて、はじめて面白くなるみたいなことかなと。
永田
そうそう。
谷口
あといっこだけ僕から喋らせてください。さっきのエリー・デューリングの話みたいに、Queくんは、ディスプレイの数だけいっぱい時間があるっていうロマンチックなことを言ってて……でもわりとそれに近いものを僕も感じていて、あの時計の作品って、あれはそうせざるを得なかったんですよ。つまり、12時間撮影した映像を12時間再生してると、どんどん今の時間とずれてっちゃうんですよ。だから、あの時計において今を指し示す、今を作るために、計算処理して修正しないといけない。だから「今」ってやっぱ作らなくちゃいけないっていうのは、けっこうあの作品で感じたことだなとは思いました。 なにかもし他に質問ある人いましたら。
質問者2
Queくんのディスプレイのグリッチについて聞きたくて、アートプレイスのときに、画素が壊れているやつ……あれについて興味があって、さっきucnvさんのディスプレイに穴を開けるのが明らかに違うって言ったのは、あのグラフの中に出てこなかったカテゴリに入ってるからだと思っていて、何が違うかって言ったら、表示が機能上じゅうぶんに保証された状態っていうのが、たぶんあそこにリストアップされてて。 ucnvさんの場合は表示それ自体に対する棄損……グリッチ、っていうカテゴライズが、なんか今の話にそんな出てこなかったのが、ディスプレイっていうものそれ自体の道具性とかそういうものにかんだ状態のディスプレイ作品の話しか出てこなかったときに、Queくんのディスプレイ、1600万色……表示可能な、要はカラーシートみたいな層だよね、絵の具一枚全部塗ったみたいな、あれと交代して、グリッチっていうものが、ディスプレイと絵の具と、ほかにどこに位置してるんだろうと。
Que
ディスプレイの液晶セルと絵の具の間のどこに存在しているのかっていう問題ですね。
質問者2
そうそう、1600万色の表示可能性を毀損してるんでしょ。
Que
ていうか、毀損されるっていうことが大事なんですよ。なぜならそれはものだからなんですよ。ものでなければ絵画は不可能じゃないですか。 だから、あれが壊れるっていうことは、同時にそれが描けるものだっていうことが明らかになるわけで、そもそもディスプレイとして……
質問者2
物質性の担保というか、作家のサインみたいな役割として?
Que
まあそうですね、ていうか、さっきも一回性の話が出たと思いますけど、そもそも工業製品って全部規格化されていて、差がないようなものとして認められやすいですよね。 でも実際はハードウェアでちゃんとキャリブレーションしないと色もひとつにならないし、メーカー差、個体差、それこそ品番差とかでも非常に差が出る。 池田亮司さんとかは工場に行って、プロジェクターの品番で隣り合わせのやつを指定して持っていくっていうのはけっこう有名な話ですけど、そういうふうに、実は物質性を帯びたものっていうのは実はそれぞれにアウラが備わってる、どんなに複製されようと。 だとすれば、ディスプレイっていうのは一回的なものだからいつか壊れていくんですよね。でもその壊れていくという事実の前に、それをどうやって歴史の中に入れるかっていう問題が成立するわけで、やっぱそういうのもちゃんと明らかに出していかないと、それこそ今の(ナムジュン・)パイクの問題みたいなところに行き詰まってしまう。 これいつか壊れるんだっていう前提の中で、私たちはそれはエネルギーとしてまたは物質として消費して、光を見ているんだっていう事実を引き出してこないと、結局それこそ現代性みたいなものから宙吊りになってしまうだけだと僕は思ってるから、それが絵画面の中でどの位相にあるかということではなくて、壊れる部分が絵画の中にある、という前提をちゃんと作るっていうことです。
谷口
ほかに質問なければ、そろそろいい時間かなと思うのでこのあたりで。今日は長い時間ありがとうございました。