【考えてみる】言葉の質感
わたしたちは、普段なにげなく話したり、何か文章を書いたりすることがあります。そういったとき、読みやすく話そうとか、文法的に正しく書こうといったことを無意識におこなっていると思います。いっぽうで、逆にそうした正しさに捉われずに言葉と向き合うと、もっと言葉にはいろんな質感があることに気づきます。 いくつかの事例を紹介しながら、そんな言葉の質感について考えてみたいと思います。
未明の闘争 保坂和志 (2013)
十二月の初旬で晴れていたので暖かく、風も吹いていなかった。池袋はJRと西武池袋線と東武東上線の線路によって東と西に分かれ、西武百貨店があるのが東で東武百貨店があるのが西だ。その西側の南寄りにあるホテルメトロポリタンの南の端を西から来た片側三車線と片側一車線という変則の四車線の道路がかすめる。道路はそこを過ぎると地下一階分くらい下降して、幅百メートルほどある線路の下に潜る。採光が悪く照明もろくにないそこがビックリガードだ。「ビックリガード」とはいかにも通称のようだが、東京都の区分地図にもそう記載されている。池袋駅の周辺は高架になっていないのだ。
これは保坂和志の小説「未明の闘争」の冒頭部分です。最初の段落の最後「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」は明らかにおかしい文章になっていますが、それとしか言い表せないような唐突さや驚きが感じられます。また、この文章の真ん中にある「一週間前」は、「私は〜」にかかるのか、「死んだ」にかかるのかがはっきりせず、誰にとっての「一週間前」なのかが確定しない不思議な文章にもなっています。その前の箇所では「九年も経つと〜」とあるのでより時間がはっきりとしません。その後につづく池袋駅ビックリガード周辺の描写は東西南北、さらに上下の方向と、数字が入り乱れ、複雑でせわしない運動が起き、それぞれの説明は明瞭なのに、結果として自分がどこにいるのかわからないような文章になっています。(音読しないかもしれないが、音としても「南の端を西から来た」(来た、と北)のように混乱する箇所がある)
未明の闘争 保坂和志
桜の開花は目前に迫っていた 保坂和志 (2004)
高気圧はそれに包まれているかぎりは、穏やかな晴天になるが、去っていくときには気圧の差で激しい風を吹き出す。隣の家は卒業式が終わった一人娘と友達たぎが集まっているので騒がしかった。一人娘はルイちゃんといい、モーニング娘。のファンで、両親もモーニング娘。のファンだ。家族全員でコンサートにいったこともあるらしい。全員といっても三人だが、高気圧が去り、そのかわりに来たからまた寒気が南下してくるので、天気予報では明日は雨になると言っていた。
日本海側でも雪でなく雨なので、寒気といってもたかがしれているだろう。桜の開花が目前に迫っているのだ。しかしいまある暖気とこれから来る寒気の境目には前線ができて、そこでは突風や雷がある。暖気と寒気が入れ換わるときにはその境目で、突風が吹く。突風が吹いたら夏でなくてもそれにつづいて雷が鳴る。これは憶えておいた方がいい。もしかしたら、隣の家に集まっているのは娘の友達たちでなく、お母さんの友達たちかもしれない。お母さんといえども、自分の親の前では娘だ。夫の前では妻だ。
こちらも冒頭から「その人といっても私といっても同じことで、」というように始まり、この小説が誰の視点から描かれているのかが不明瞭なままはじまります。途中で頻発する「モーニング娘。」は隣の家族の描写の中で登場することで非常に混乱する文章になっています。「一人娘はルイちゃんといい、モーニング娘。のファンで、両親もモーニング娘。のファンだ。」そして、「モーニング娘。」の表記に句点が含まれるので、小石につまづくように毎回そこで文章が止まってしまいます。そして、ダメ押しのように「隣の家に集まっているのは娘の友達たちでなく、お母さんの友達たちかもしれない。お母さんといえども、自分の親の前では娘だ。夫の前では妻だ。」という部分で、誰から見るかによって呼び名が変わってしまう不安定さが強調されます。ちょうど最近公式サイトで公開されたようで下記から全文読むことができます。↓
「桜の開花は目前に迫っていた」(『小説の自由』より)
このあいだ東京でね 青木淳悟 (2009)
とりあえずどこがいいか、これからじっくり見極めていこうとしているところだ。ここ最近になってようやく情報収集に乗り出して、どんなものかだいたいの感触を探ったりイメージをふくらませたりしつつ、そろそろ関連書籍のたぐいにも手を伸ばしかけているか、今度の週末にでも相談や見学に出かけようとしているかというあたりである。住まい探しはまだはじまったばかりなのだ。
さまざまな思いを胸に、こうしてめでたく購入希望者となった彼ら。ただし検討期間であるうちは、この先三ヶ月くらい物色してみようと三年かけてまわってみようと、そこに取引がないということに変わりはない。「現在検討中」なる人間は、全体でどれほどの数にのぼるだろうか。
検討に検討を重ねた末、今回は購入を見送ろうとの判断に至らないともかぎらない。はたして本当に「いまが買いどき」なのかどうか。そもそも「購入か賃貸か」。これまでたびたびくり返されてきた問いなのである。
取引当事者にはそれぞれ事情と思惑がある。売り手がいて買い手がいて、そこにはいわゆる「契約の自由」も「情報の非対称性」も「交渉力の格差」もあって、家がほしいというのは口先だけのことかもしれず、たとえ購入意思が固くても資金力がともなわなければ元も子もない。
そこで将来的に購入を計画しているという者、またついぞ購入予定のないような今日みほにの者にさえ、資料請求の折だとか展示場・案内所・販売センター来訪時には、くわしいアンケートへの回答が求められることになる。客は客でもいろいろな性格や属性の客がいて、言葉が悪いがブタもカモも紛れ込んでいる様子なのだ。
「ある程度人生に見通しを立てた複数の人間が東京都内に新たな住居を探し求めていた。」と始まるこの小説には明確な「私」のような登場人物が出てきません。正確にはこの後「私」は登場しますが、もっと抽象的に描かれていて、全体としては「ある程度人生に見通しを立てた複数の人間」が主人公の小説になっています。つまり、そうした属性の人々を足しあわせた平均値のような、なにか曖昧な存在の人が主人公になった小説です。そして延々と土地のことや不動産やローンの仕組みなどが記されていきます。
このあいだ東京でね 青木淳悟
わたしの場所の複数 岡田利規 (2006)
※ただし引用箇所は『人はある日とつぜん小説家になる』(古谷利裕)からの孫引き
「わたし」の夫に対する複雑な感情と、夫がわたしに隠れて書いているかもしれないネット上の日記の存在や、それをもし書いていたとしたらわたしはすぐに「読んでいたことになる」という、まだ起きていない出来事がすでに終わったかのような複雑な記述になっています。このような妄想とも取れるような、行き過ぎた想像が時間や空間を超えて記述されています。「わたし」という人間の輪郭を超えて、幽体離脱して世界をのぞいているような、そんな不思議な感覚になります。
わたしたちに許された特別な時間の終わり
標準時 佐クマサトシ (2023)
※画像は短歌グループ「TOM」のwebサイトに掲載中のものから
先日献本いただいて知った歌人「佐クマサトシ」の短歌です。何気ない日常の風景を、なんてことない言葉で描いているのに、ちょっとだけズレた情景の組み合わせで、どこかネジの外れた世界に繋がってしまうような、そんな短歌です。そこから他の現代の歌人について調べたりしはじめたんですが、現代の短歌がこんなに面白いとは知りませんでした。
標準時 佐クマサトシ
TOM
タイガーマスクのマスクが破られる瞬間 イシダユーリ (2009)
イシダユーリさんという詩人のポエトリーリーディングの作品です。「言葉がなければ可能性はない - Spoken Words Conpilation 2009」というCDに収録されています。作品の最後で示されるように実在するプロレス雑誌の対談記事から断片的に引用しつつ、とても力強く、そして奇妙な熱量を持った詩が展開されます。実際の音源はここに公開できませんが、内部向けの授業用資料に掲載していますので、受講生はそこから試聴してください。
みんなの宮下公園 山田亮太 (2016)
渋谷区にある宮下公園は、かつてナイキによって「ナイキパーク」として名称変更、改修する計画がたちあがり、それによるホームレスの排除などが懸念され、反対運動が起きていました。そうした場所をモチーフとして、実際にそこに設置されている看板、注意書き、貼り紙、ビラなどから文章を取り出し、詩を構成しています。そうした文章からは、公園を管理する行政の存在や、宮下公園にまつわる様々な問題、社会的な状況や、そこを利用する人々や、ナイキパークに対して反対する人々の活動のうねりのようなものが感じれらます。
山田亮太『オバマ・グーグル』
カットアップ ウィリアム・バロウズ
アメリカの小説家ウィリアム・S・バロウズは、友人のブライオン・ガイシンとともに「カットアップ」の手法を用いていくつかの作品を書いています。映像の中で紹介されているように、新聞など文字が書かれた紙を切り刻み、偶然隣り合って生まれた言葉を作品に使用していきました。意味の偶然の接続の感じる暴力性、酩酊したり、意識が混濁しているような感覚を感じます。
まとめ
こうして色々な事例を見ていくと、普段日常で使われる言葉以外にもさまざまな言葉があることが見えてきます。ひとつには、小説の例にあったように、文法の正しさや、視点の同一性を疑い、それをあえて崩していくことで、通常の使用の領域の外にまだ様々な言葉の質感があることが見えてきます。また、いっぽうでカットアップや、山田亮太、イシダユーリ、佐クマサトシなどの詩の例からは、さまざまな場所からやってきた文章が衝突することで、普段使われる言葉でも、インタビューや商品のパッケージング、行政文書など、それぞれ異なる文体、質感を持っていることが強調されます。これらの例から感じられた感覚をもとに、次の章で言葉の実験をしてみたいと思います。