谷口暁彦 個展「超・いま・ここ」会場図

夜だけど日食
eclipse but night

2008 - 2010

小さなディスプレイには、音に反応して明滅する電球の映像が映し出されている。電球は、音に反応してon/offを行う回路によって制御されていて、作者の鼻歌に反応して明滅する。その様子を映像として記録し、小さなディスプレイで再生している。このディスプレイの背後には、映像に記録されたものと同じ電球が配置され、映像の中に記録された作者の鼻歌に反応して明滅する。結果、ディスプレイの中の電球と、その背後にある実物の電球も同じタイミングで明滅することになる。またそれは、ディスプレイの背後から、映像の中の電球の光が漏れだしているかのようにも見える。

今回の展示では、オリジナルが全て紛失しているため、液晶ディスプレイをiPod touchに変え、映像も再撮影し、全面的に再制作したものを展示した。

この作品も、「たにぐち・わたなべの思い出横丁情報科学芸術アカデミー」の、幽霊を作る課題として制作したものだ。時計を使った「夜の12時をすぎてから〜(略)」という作品だけだと、いかにも課題作品的で直球すぎると感じていたので、思い出横丁情報科学芸術アカデミーの講評会直前に急遽制作した作品だ。音に反応して電球を光らすための回路は、「置き方」という作品で使用したものをそのまま転用した。また、この作品は 2011年の眼科画廊の展示で「置き方」の一部として展示したので、実質「置き方」の作品の一部分とも言える。とてつもなく地味な作品なのだけれど、そこで起きている出来事については結構気に入っている。まったく同じ仕組みで動作する過去の映像と、現在の実物が、その仕組みゆえに互いに影響しあうように動いてしまう。当時はあまり意識していなかったが、トリシャ・ブラウンというダンサー・振付家の「Homemade」という作品の影響があったんじゃないかと思う。これは、トリシャ・ブラウンが映写機を背負った状態でダンスする作品で、映写機からは、同じ振り付けで踊る過去のトリシャ・ブラウンの姿が映しだされている。映写機を背負ってダンスしているから、映像は空間のあちこちに移動、浮遊していく。たんに過去の映像と併置されて踊るのではなくて、その同じ振り付けによって過去の映像が、映像という別の身体を伴って、いま・ここで再びダンスされることになる。なんとなくそうした構造に強い魅力を感じていたことは覚えている。また、例によってこの作品でも電球を光らせるトリガーとなる音には僕の鼻歌が使われている。我ながら、こういう手法を多用するアーティストはちょっとうざいなと思わなくもない。